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集合的無意識と悟り

精神世界の話をしていくときによく出てくるのが、集合的無意識というやつです。このあたりの話については、ちょっと探せば、いくらでもいろんなコンテンツが出てくると思います。

あえて、ここでやることもないかもしれませんが、とりあえず(?)ここでも一度、取り上げておこうと思います。

集合的無意識について、ウィキペディアによると、こんなふうに書いてあります。

提唱した分析心理学における中心概念であり、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域である。普遍的無意識(ふへんてきむいしき)とも呼ぶ。個人的無意識の対語としてあり、ユングはジークムント・フロイトの精神分析学では説明の付かない深層心理の力動を説明するため、この無意識領域を提唱した。
※ウィキペディア「集合的無意識」より引用

人間の無意識の深層」などという、掴みどころのない概念でもあるので、これを証明しようというのは、なかなかに至難の業ではないかと思います。

 集合的無意識があるからこそ、自分自身とも他者と対話し、理解し合えるのだともいえます。ユングは、私たち一人ひとりの人生は、普遍的なものの根や地下茎から生えたひと夏限りの植物に過ぎないとさえ言いました。言葉を変えれば、「自分は自分である」という自己意識や、思うこと、感じることなどは、すべての人類の長い歴史や文化から無縁ではありません。
※臨床心理学用語事典「集合的無意識 (Collective Unconscious)」より引用

この類の話は、目に見えない部分でもあり、科学的にも証明の難しいテーマでもあるので、信じない人にとっては、ただの妄想のように受け止められるかもしれません。

しかし私は、科学の世界においても、私たちが視認できないような「高次元世界」の存在が否定できない以上、それを妄想として切り捨てるべきではないと考えます。

同じような考え方で、物質の最小単位は「ひも」であるとする「超ひも理論」というものがあります。超ひも理論の中身については、いろいろと検索していただければ出てくると思います。ここで扱いたいのは、この超ひも理論によると、世界は9~11次元あるということになるという点です。
※「この世界のはなし(2) ~高次元世界の交差点~」より引用

私たちが生きている世界は、私たちが見てる以上に複雑怪奇な仕組みでできている可能性があるのです。

ところで、私は今、あえて「複雑怪奇な仕組み」と書きましたが、考えようによっては、結構、シンプルなのかもしれないとも思っています。

こうした集合的無意識のような概念について、ただの妄想として切り捨てず、仮に実際に存在するものと考えた場合、それを明らかにする手がかりとして、例えば、宗教のようなものが、ヒントをくれることがあります。

宗教には礼拝の類のものがあります。仏教でも、座禅や瞑想のようなものが行われます。とてもざっくりした言い方になりますが、これらは心を落ち着かせ、神との対話をしたり、内なる声に耳を傾けるような精神作業です。

この時、向き合っているのが「集合的無意識」と考えることができるのです。

例えば、座禅や瞑想の場合、自我を消し去ります。自我を消し去るということは、自分が意識できるレベルの心的な動きを無くすということです。それはまさに無意識と向き合うということになります。

その結果、向き合っている無意識というのが、まさに「集合的無意識」であるという解釈が成り立ちえます。この「集合的無意識」とは、自分だけの無意識ではありません。それは「集合的」なので、他者とも共有している無意識になります。

このことは、例えば「他者の喜びとは何か」を知るであったり、「他者の痛み」を知るということにも繋がります。もっと言えば、「他者が自分に何を望んでいるか」を知ることであり、「他者に対して自分がすべきこと」を知ることでもあります。

それを知るということは、とても大切です。

何故ならば、それを知り、そして実行するということは、自分だけでなく他者が望んでいることでもあるので、事がうまく運んでしまうということにもなるからです。言い方を変えれば、「成功の秘訣」みたいなものです。

この時の他者というのは、そこらにいる隣人ということではないと思われます。精神世界における「集合的無意識」に接続している他者とは、全人類でもなく、全生物でもない気がしています。少し大げさかもしれませんが、その他者には、この宇宙に存在する「全生命体」が接続しているように思えてなりません。いいようによっては、宇宙そのものです。

「生物」と「生命体」の違いについては、以下の記事を参照願います。

生命とは、物質と物質の間で、電荷の交換がなされ、それがある種のネットワークを構成していているもの。
こう考えると、生命は必ずしも生物にのみ内在するものではなくなります。生物として活動していなくても、「思考するだけの生命体」がありうるのではないかということです。つまり、生物と生命体は別物になります。
※「生命とは何かを考える」より引用

「集合的無意識」の「集合」が、ただそこらの「集団」ではなく、全宇宙の生命体全体くらい考えないと、精神世界のような見えない高次元にある概念として、バランスが合いません。

さておき、こう考えた時、座禅や瞑想などで得られるものは、次のようにように言い換えることができます。

宇宙の喜びとは何かを知る
宇宙の痛みを知る
宇宙が自分に何を望んでいるかを知る
宇宙に対して自分がすべきことを知る

あー、「悟る」ってこれよね?ってなります。とくに難しいことでも何でもありません。

そして、これを知ることで、自分の使命とは何かを知り、その実現のために生きていくことができるようになるというわけです。

ちなみに、そういうことなので、「悟る=人生の目的」ではないことは明白です。悟ることで、初めて人生のゴールが見えるわけですから、そこからがスタートとも言えます。そう考えると、人生ってなかなかにハードです。きっとやることだらけです。

さぁ、張り切っていきましょー。


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