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感情計測と因果、そして倫理

前回は、感情計測を考える上でどのような視点を持てそうか考察をしてみました。今回は、感情が日常の中でどのように機能しているのかを踏まえて、感情計測の方向性を考えてみたいと思います。抽象性が高い書き方になってしまいましたが、読んだ方が想像できる余白を残したかったので、このような感じなりました。

結果としての感情

まず分かりやすい話として、物事が起こった結果としての感情を考えてみます。例えば、「今日は天気がいいから気分がいい」「あの人にあったから気分が悪い」「お笑いを見て楽しい」、などがこれにあたります。気分がいい、気分が悪い、楽しいというのが感情であり、天気、あの人、お笑いというのがその原因となります。ただし、原因と感情を抱く人の間には何らかの接点が必要であり、この意味で関係性が見出されます。

感情計測において、ある瞬間の感情を知りたいという要望が多いのですが、それそのものにどこまでの価値があるのかは疑問です。例えば、あなたの友人が怒っているけど、あなたはその事実を知ることしかできないとします。そうすると、なぜ怒っているかが分からないから、その場の解釈としては何も情報が増えようがなく、あなたを困惑させるだけです。一方で、その友人が少し前に誰かと喧嘩をしているのを、あなたは目撃していたならば、その間に因果関係を見出します。もちろん、厳密な意味での因果関係の証明にはならないのですが、解釈に必要な探索空間を絞り込むには十分であると思います。さらに、あなたは友達に何か話しかけてもいいとします。すると、あなたは喧嘩が原因だと知っている(仮の信念を持っている)ので、そのつもりで友人に接することになります。

このような一連の流れの中で、あなたは一体何をしたいと思ったのでしょうか。友人の状態を知りたいと思うのは、友人が友人であるからこそ、彼が負の感情を持つ状態が気になるわけです。例えば、その負の感情の改善そのものが目的であり得ると思います。だとすれば、感情計測が感情を計測するだけでは本質的に不十分であり、なぜその感情に至ったのかという感情の原因を絞り込む必要があると考えることができそうです。

とても周りくどい言い方をしていますが、感情計測に求めるものが何であるかを理解することが、実際になんらかのプロダクトやサービスに組み込むには不可欠ですので、論を慎重に進めていきます。

原因としての感情

次に、原因としての感情を考えてみます。これは、結果としての感情よりも因果の結びつきが弱いように思えます。例えば、「イライラしたから暴飲暴食した」「焦っていたから信号無視をした」「怖かったから走ったなどがこれにあたります。イライラ、焦り、恐怖という感情は、その次に来る行動の原因となっているような構造を見ることができます。

もちろん、感情だけで行動が決まるわけではありません。どのような状況に置かれていて、現在取りうる行動のオプションは何かという情報が必要であり、感情だけでなく理性による決断も行われています。感情と理性の役割に関しては多くの先人が言及してきており決着がついていませんが、両者が判断に関わっていること自体に疑問はないかと思います。感情は物事の決定要因として、全てを決めているわけではないが、部分的には原因となっているという感じです。

では、感情計測において、ここから何を見出せるでしょうか?それは、ある限定された状況での行動予測や、ある行動をしたときにそれはなぜなのかという考察への展開です。マーケティングで言えば、人間の購買行動を理解することで、商品レコメンドの方法や、店内動線を作ってきたわけですが、一歩踏み込んで感情を計測することで、なぜその行動に至ったのかに迫れる可能性があります。また、犯罪行動に走る原因が何らかの感情の種であるならば、そこをなだめるような対策が打てるかもしれません。自分自身の行動の振り返りでも使えそうです。なぜ、勉強が続かないのか、なぜ夜中にお菓子を食べてしまうのか、感情や気分に訴える方略を設計することで、自分を変えられるかもしれません。行動という結果だけに注目するのではなく、その手前の感情や気分の揺れを掴むことで、より根本のところで対策をしようという考えです。

これからの感情計測

そうすると、現在の感情計測に欠けているものは何でしょうか。それは、感情を機能として捉える視点だというのが私(たち)の見方です。つまり、感情は物事に対する反応であり、決断の原因であるという日常の中の機能としての振る舞いとして理解していこうというスタンスです。これまでの感情計測は、兎にも角にも感情が知りたいという大雑把な問いの設定でした。これが、なぜ私はあのような行動をしたのか、それを決断する直前にどんな感情だったのかという時間的にも空間的にも広がりを持つ問いに拡張することで意味を持ち始めると考えています。

そういった意味では、対象を個としての人間に限定するのはいささか不自然な気がします。あくまで人間は自分の外の事物(他人も含む)との関係性の中に埋め込まれているとすると、事物も計測と考慮の対象に入れるべきではないでしょうか。しかしながら、このアイディアは無限に多くの計測対象を持つことになってしまうのも事実です。現実的には、特定の関係性の側面に注目して、狭い範囲の理解を捉えようとする試みになってくると思います。段階を経て拡大したり、他のサービスプレイヤーと連携することで、世界の理解を広げていくというのがありえる路線ではないでしょうか。

感情計測と倫理

感情の計測の適用範囲が拡大してくると、人間の行動のウェットな部分が見えてくる未来が予想できます。そのときを見越して整備しないといけないのが、感情計測技術の使用倫理です。素朴な観点では、プライバシーへの配慮と、個別マーケティングへの適用範囲が論点になり得ると思います。

GoogleやFacebookなど、個人情報を扱うプラットフォーマーへの風当たりは年々強くなってきています。個人の特性に合わせて、戦略を立てられるならば搾取的になりかねないので、このような批判は尤もだと思います。しかし、個別化は当事者にっとても便利であることは事実です。企業から個人への関わり方が搾取的であるのかの否かというのは、感情計測という小さい範囲の議論ではなく、AI倫理やビジネス倫理まで広げて議論する必要があると考えています。

例えば、個人の決断が何に依存しているかと考えてみたときに、一つの企業からの戦略的な情報提供により、決断要因の10 %以上(あくまで例です)介入してはいけないなど、目安を引くのが一つの対抗戦略かもしれません。AIの話にせよ、ビジネスの話にせよ、定量的に効果を計測できる方法というものが必要になってくるのかもしれません。

また、ブロックチェーンの普及は追い風だと思います。結局、どう使われているかわからない、というのが悪い部分だと思いますが、データの取得から解析、実行まで全ての点で自らのデータ使用の流れをエンドユーザーが終えるというのがフェアな在り方かもしれません。

現在の感情計測技術のレベルでは、まだ大きな問題になるほどの結果は得られないと思いますが、AI技術の発展とIoT機器の普及速度、5Gへの移行という技術的基盤が急速に揃ってきているので、数年内に具体的な対策を整備する必要があるかもしれません。

感情計測はコールセンターでのストレス解析、お客様の感情解析という感じで管理の文脈で使われてきたことも否定できないと思います。また、嘘発見器的なものも似たような原理に基づいているので、同じ範疇の話かもしれません。ただ、現在は個人を尊重する世界になってきており、管理や一方通行の情報の流れは次第に受入れられ無くなっていると思います。もっと、エンドユーザに益のある形で発展させることが絶対的に重要な課題だと思いますし、私たちもそのような形にできるように取り組んでいきます。

おわりに

これが今年最後の投稿になります。せっかくのクリスマスなのにガチガチの内容になってしまいました。でも、クリスマスって一体何の日なんでしょうか。教会が戦略的に25日をキリストの誕生日ということにしたという記事を読みましたが本当なんでしょうか。調べてみると面白そうです。私もイベントしてのクリスマスは好きなので、ネガティブな意味で疑問を持ったわけではなく、どうせ楽しむならちゃんと知って深く楽しみたいなと思ったという感じです。....そろそろ雑談も切り上げて、終わりたいと思います。 

それでは皆様、良い年末年始をお過ごしください。

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