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人間について考えてみる(2) 〜感情〜

日常を振り返ると、感情はいつでもそこにあります。怒ったり、喜んだり、落ち込んだり、いろいろな感情と共に生きています。心理学的には感情は心のひとつの側面だと考えられていて、皆さんもその説明に違和感はないと思います。でも、感情がどのような役割を持っているのか、どのような心の機能を感情と呼ぶのか、どんな種類の感情があるのか、そして感情は人間が生まれ持ったものなのか、疑問をあげればキリがないことに気づきます。そう、知っているようでよく知らない。この記事では感情に関する科学の変遷を眺めることを通して、少しだけ感情研究の入り口を覗いてみようと思います。

近いから知っているつもり

感情は確かに私たちのすぐそばにいます。でも、だからといってよく知っているとは限りません。感情はそれを経験する本人しか感じることができない?「いやいや、よく眺めればあの人の感情わかるよ」と言いたいかもしれませんが、それって自分と相手の感じ方が同じだと仮定して想像しているだけなのではないでしょうか。このような捉え方で日常は問題ないわけですが、理解しているかというとそうでもないんです。

例えば、同じような身体感覚でも、置かれた状況が異なると違う言葉をあてがっていることがあると思います。もう10時間は食事をとっておらず、料理を心待ちにダイニングにいるときに経験する胃の違和感は空腹だと感じると思います。一方で、最近の風邪は胃の不調を引き起こすんだよという話をしていれば、体調が悪いんだと思うかもしれません。このように、身体に生じる同じような感覚も、どうラベリングをするかは文化的、言語的なものである可能性があります。感情に関しても同じ議論があり、実は感情の構造は複雑で、自分の心を内観するだけではその本質が何であるのかに辿り着けなさそうです。このような日常の素朴な心の捉え方は科学と呼ぶには客観性も反証可能性も不十分であるとしか言えません。

行動主義で客観的に

自分の心を見つめるだけでは、感情の本質に辿り着けないならどうすれば良いのか。感情研究の大きな転換だと考えられているのが、行動主義と呼ばれるパラダイムの登場です。行動主義は1913年にワトソンにより提唱されました。これ以前は、内観することで意識や感情など心に関する知識を得ようとしていましたが、行動主義心理学では観察可能な行動のみを対象としようとします。ある刺激が外部から与えられたときにどんな反応をするかを調べるのが中心的な方法です。

確かに、この方法だと客観的なデータを蓄積できるし、あなたと私の比較が可能になります。内観だけでは、同じ言葉で「悲しい」と言ってもあなたの悲しいと、私の悲しいが同じかという議論には答えが出せませんが、第三者が観察可能なものであれば、そのような議論が可能になります。

しかし、行動主義は心を扱うはずだった心理学が、そのスコープから心を追い出してしまった感じがあります。行動主義は文字通りの意味で目に見えるものを対象にしたわけですが、このアプローチの欠点とは何でしょうか。例えば、表情は確かに感情を反映しますが、自分で意図的に動かすこともできます。悲しくなくても悲しい顔をしたり、悲しいけど凛としていたり。このように、表出される行動を見るだけでは、心の中を必ずしも見ることができないことに問題がありました。

生理反応はごまかせない

1960年代に入ると、生理心理学が登場しました。これは生理学神経科学と心理学の接点となります。主観的な感情と生理学的な変化の対応が注目されることになります。有名なキャノン=バード説やジェームズ=ランゲ説の対決がわかりやすい例です。ジェームズ=ランゲ説は身体の抹消的変化が感情を喚起するという説です。例えば、熊に遭遇してしまったときに、「身体が震え、その結果として恐怖を感じる」というようなプロセスであると主張しました。一方のキャノンバード説は、感情の中枢は脳にあり、その結果として身体が変化すると主張しています。これらの議論は、感情を生理学的、神経科学的なものと結び付けて議論するという面において非常に重要となりました。生理学的反応や神経活動は人間の意思で偽れないので、より科学的な議論ができるようになったと言えます。今では、認知主義などの方法と合わさってより高度な心理学的アプローチをとるのが通常です。Oliveの活動も含め、感情認識系の方法論は生理心理学や神経科学に負う部分が大きいです。

感情と情動

さて、ここまでざっくりと感情研究の変遷を見てきましたが、そもそも感情という用語がどのように使われているのでしょうか。また、感情と切り離せない概念として情動という用語も知っておく必要があります。実はここまでの記述だと、正確には感情ではなく情動と書くべき箇所がいくつかあります。これ以降を読んだ後に、どの部分が情動なのか自分で考えてみてください。

さて、手元にあった神経科学、生理学、心理学関係の本から感情と情動の定義を抜き出してみました。日常的な用法も知りたかったので広辞苑も参照しています。これらは現代的な定義なので過去には別の使われ方もしています。興味のある方は調べてみると面白いと思います。

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この表を見ると、結局なんなんだよと言いたくなりますが、少し整理してみます。まず、神経科学の代表的なテキストである、カンデル神経科学を見て見ると、感情とは「身体的および認知的変化の意識的経験」、情動とは「脳が何らかの困難な状況を検出した際に、ほぼ無意識的に生じる生理的反応」と書かれています。つまり、情動とは生理的な反応でありそれに主観的な気づきは要請されていなません。感情はそのような生理的反応や認知的反応に主観的に気づくという上位のプロセスであるという内容です。

生理学のテキストである標準生理学の記述を見てみましょう。情動は「(1)感覚刺激(対象物に関する情報)の受容、(2)感覚刺激の生物学的(情動的)価値評価と意味認知(対象物の認知)、(3)価値評価と意味認知に基づく情動の表出並びに情動の主観的体験の3つの過程からなると考えられている」となっています。こちらもカンデル神経科学と大体同じような内容ですが、主観的体験も情動に含まれている点が異なります。

心理学系の本をいくつか挙げていますが、その用法に統一した定義はないとしているのが一般のようです。かなり素人泣かせだと思います。ただし、感情が何であると捉えるかはいくつか立場があります。感情心理学ハンドブックの記述を例にとると、以下の(1)〜(4)つに分類されるようです。さらに、感情心理学への招待 感情・情緒へのアプローチから(5)の認識がありそうです。

(1)ダーウィンの進化論からの進化論的立場
(2)ジェームスに端を欲する身体学的立場
(3)キャノンの神経学的立場
(4)アーノルドの認知論的立場
(5)社会的現象としての立場

神経科学や生理学の分野では、情動とは反応的なものであり、基本的には一過性であるとされています。これは、そのように定義しないと学問としての性質上しかたないように思えます。一方で、心理学サイドは実に多様です。上記の例以外の分類方法もあります。最近の話題だと、感情が本質的に人間に備わったものなのか後天的に形作られるものなのかといった面で議論が活発です。この話題に関しては、心理構成主義(感情は後天的に作られた派)の研究者であるバレット博士情動はこうして作られるが詳しいので興味のある方は手に取ってみてください。

感情認識は本当に感情認識か?

僕は神経科学や心理構成主義的なものに正解が潜んでいる可能性が高いと考えています。これらの立場では生理的な反応を情動であるといっています。また、多くは社会的に構成されたものであると思います。そういたった意味で言うと大抵の感情認識技術は、情動認識技術でしかないと言うことになります。ただ、世の中の人が欲しい情報は感情の方だと思います。このギャップが感情認識技術がいまいちな原因のひとつにあると考えています。

結局、情動と呼ばれる生理学的変化や状況を含む刺激に対して主観的な気づきや解釈が与えられたものが感情と呼ばれる高次の心であるとすれば、生理学的な反応を計測するだけでは十分ではないことになります。現状の仮説ですが、情動や文脈を統合してメタ的な解釈を与えられるモデルが必要になりそうです。そこまで突っ込むことで、初めて感情認識と言えるのではないでしょうか。そして、僕たちの目指すところはそこです。

おわりに

毎回議論が発散して終わりになるのは反省です。でも、研究で一番重要なことは何なのか考えると、これでいいかなと思います。勉強は既存の知識を得ることですが、研究は未知のものを探究することです。学部生時代のとある講演が今でも心に残っています。「研究はテーマを見つけた時点で50%完成です」という内容でした。全くその通りで、テーマを見つけるのが一番難しいです。そして、テーマを見つけることこそが重要で、これは研究でもビジネスでもそうですよね。サラリーマンと起業家の違いとでも言いましょうか。もうひとつ「若いうちは人の論文をたくさん読め、でも読みすぎてはいけない」という内容です。一見矛盾していますが、人の知見に触れて基本的な考え方や知識を得ることは重要だけど、それが内面化されすぎて他人の思考に毒されてはいけないという趣旨です。基本は知っている必要はあるけど、そこから抜け出せたときに自分の道が始まるような気がします。感情から話が逸れてしまいましたが、今週はこれで終わりです。

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