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秋の夜長に何を思う〜感情の存在〜

滋賀の地で物思いに耽る

忙しさにかまかけて、そのうち時間が出来たときに書こう書こうと思っていたら、前回から4ヶ月も立ってしまった。実はここ数週間、滋賀大学の合宿所に泊まり込んで、睡眠に関する実験を毎晩行っている。正直かなりの田舎で、何もない。近くに大きな川のある風景は、故郷である水俣を思い出させる。

普段、都会の喧騒から長い時間離れられる機会はそう多くない。数日の旅行では感じられない感覚。川縁を散歩し、釣り人とさっそうと水面を掛けるボートを眺める。店は殆ど見当たらない。夜は虫の声が鳴り響き、僕の居室には先住民のヤモリが這う。

環境が変わると落ち着かない質なので、はじめはソワソワした。でも、ふとした瞬間に思考が自分に向き始めることがわかる。なぜだかわからないが、外部の情報量が低下したからだろうか。すると、自分が今やっていることを見つめられる余白があることに気づく。『あれ?、、、感情を測ると言っているけど、そもそも感情って何なのか?』。『測るってなんだっけ?』。今日は、そんな時間に浮かんできた疑問を書き連ねてみたい。

測るとは?わかるとは?

最近は、数値化出来ないものは本質に非ずのような見方をする人も多いかもしれない。でも待って欲しい、本当にそうだろうか?物理学は物事を定量的に扱い、数式(記号)によりモデルを記述する。では、感情を測るといったときに、測られるものとはなんだろう?感情は直接測られるものなのか?

例えば、aとは恐怖という感情の経験で、誰かが『怖い』と言ったとき、その人の中には、「恐怖」が経験されている、と考えるかもしれない。でも、だれかが経験している『怖い』という言葉と、感情経験aの間にはどのような結び付きがあるのだろうか?暗に仮定しているだろう、安定した関係は自明なのだろうか?在る場面で感じたaは『恐怖』と言うが、別の場面では『興奮』と言うかもしれない。この間の関係の安定性はどのくらいなのだろうか?安定してないとすると、事は案外難しくなる。

安定しない理由はいくつか考えることが出来ると思う。例えば、言葉で報告するということは、aの解釈a'を伴い、そういった意味でa'はaそのものではない。こうなってくると、aの本性が直接測定されない限りは、なんとも言えないというのが正直なところだと思う。そもそも、被験者は正直に答えてくれないかもしれないし、勘違いするかもしれない。

それでは、脳の発火パターンを調べれば感情を理解できるのだろうか?発火パターンAが感情経験aと結びつく可能性は十分にある。しかし、そもそもaという安定した何か在り、いま現れていることを先に示せなければ、この問題は解決しないように思える。脳科学のアプローチは何らかの報告(言葉、絵を指し示すなど)a'をaとみなすデザインが多い気がする(専門ではないので間違っていたら申し訳ない)。しかし、先の議論では報告a'は解釈であって、aそのものではない。そうすると、脳の発火パターンはaというよりa'との対応を調べていることになる。でも、ちゃんとaとa'そしてAの間の関係を知りたいというのが好奇心というものだ。

色とクオリア

しかし、現状この関係はよくわからない。いわゆるクオリア(感覚質)みたいな話になってくる。例えば、あなたと僕とでいちごを見たときに、『このいちごは赤いね』と同意することは簡単なように思える。でも、僕の目に映るの感覚は、あなたの目に映るの感覚と同じかもしれない。物理的には、色の違いは目に入る電磁波の波長の違いにより生じるとされている。いちごの例では、一般に赤色と考えられている640-770 nm程度の波長が目に飛び込んでくる。ここまでは、あなたと僕とでだいたい同じものを受け取っている。そして、桿体細胞と錐体細胞という二種類の視細胞により、光は電気信号へと変換され、脳内で様々な信号処理過程を経る。そして、赤の経験が生まれる。

しかし、ここがわからない。赤という言語的な表現は、あなたの見えている色の体験が安定しており、常にある波長の光が赤だと呼ばれていたのなら、色の体験が僕とあなたで異なっていても、いちごを見て赤だと指し示すことになる。個人の中では安定しているからこのような指し示しが出来るのだろうが、果たして違う人間の間で同じような経験をしているという保証は在るのだろうか?赤という名前は640-770 nmの電磁波を指し示す意味しか持たず、質的に共同じ色を必ずしも指し示していることを保証できそうにない。もちろん、否定する材料もない。

再び感情

感情を捉えるには、これと同じ難しさが存在する。いや、それ以上だ。色はそこに基盤となる物理現象が前提されているが、感情はそれが明確ではない。神経科学的には、脳の発火パターン、すなわちある神経という物理的な実態の上を流れる無数の電子やイオン、あるいは神経伝達物質がつくる状態が原因だと考えられている(と思う)。しかし、主観的な経験が何であるかが、神経科学でも明瞭な説明を与えることが出来ないように見える。

マルクス・ガブリエルの「私」は脳ではないは、この点に関する考察である。脳が意識(感じる主体?)を作り出すことは否定されないが、だからといって、意識が何であるかを脳の研究から明らかに出来るとも思えない。そういう意味で、「私」は脳から生み出されるかもしれないが、「私」は脳そのものではない。少し話が脱線したように見えるが、共通の問題を含んでいるように感じている。

多面的に、でも統一的に

このように書いていくと、僕が感情をあくまで理系的な、つまり自然科学や工学的に捉えようとしているのではないかという印象を受けるかもしれない。実際そうだとも言えるし、そうでないとも言える。最初の方で、報告a'の話をした。これがあたかも真の感情aの影であるかのような言い方になっていたかもしれない。しかし、a'こそが真の意味で感情だと主張することも可能だと思う。そうすると、自然科学の範疇を超えてくる。社会的なものを含む、より複雑な対象として捉える必要がある。逆に文系的な視点から見たら、脳や身体という個への関心を持たなければいけないかもしれない。これに関しては、最近読んでいる東氏の新記号論が、重要な視点を与えていると思う。

最近は、社会学、心理学、物理学、生理心理学、機械学習、神経科学....と多くの専門家と仕事をさせてもらっている。そのなかで、僕の視点も常に揺らされている。ただ一つの物事の捉え方などないのだと知った。しかし、それでも一つの統一的な説明を与えたいと思うのは理系だからなのだろうか。

おわりに

今日は、かなりごちゃついた内容だったが、感情を捉えたと言えるのは、これらの疑問に答えられたときだと思う。そして、そもそも問が明瞭でないことも確かで、その点は常に追求する必要がある。まだまだ疑問がいっぱいあるのだが、長くなりそうなのでこの記事は一旦終わりにして、次回に続けたいと思う。

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