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No,94.寛容性のお話『ええじゃないか!ええじゃないか!』

今は「ええじゃないか!ええじゃないか!」ではなく、「ダメじゃないか!ダメじゃないか!」だな〜についてつらつらと書いてみる。


背景

芸能人の不倫を許さない世の中で「女遊びも芸の内」と言っていた時代も今や昔。

そもそも「姦通(かんつう)罪」すら存在しない日本であるにも関わらず、芸能界から抹殺するかのような報道や罵声を飛ばす世の中ってどうなんだろ?

自分に直接関係のない芸能人に゛とやかく゛言うのって、昔に比べて寛容じゃなくなっているからかもね。

※別に浮気を肯定しているのではなく、浮気を過ちとするならば、ひとは過ちを犯すこともあるってことです。

当事者以外は、まったく関係ない浮気(過ち)もそうだけど、日常生活でも少しの失敗(過ち)も許さない人がいる。

言うなれば、人の失敗を許さない寛容性のない人です。

以下、寛容性についての研究をもとに少し深堀していきます。


寛容性について


寛容とは,自身と異なる,行動,信念,身体的能力,宗教,慣習,エスニシティ,ナショナリティなどを持つ他者を受け入れることである(長谷川(2020)。

また、

加罰行為の寛容性には加害者を受容したり加害者の福利に配慮するといった順社会的な変化が含ま れていなければならない(Enright, 2001; Mcc ullough et al., 2000)。


つまり、自分以外の考えを持つ人を受け入れ、ミスを犯したり失敗した人を責めるのでは無く、今後同じようなミスをしないように一緒に考えたりするってことです。


他人のミスについて


多くのひとは、ミスしようとしてミスをするのではない。ミスを失敗と置き換えると、何らかの挑戦が失敗につながると言ってもいいだろう。

エジソンも「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を発見しただけだ」といったように、失敗して学ぶ大切さを説いている。言うなれば失敗なしでは絶対に前に進めない(成功や目的に近づけない)。

ミスや失敗から学ぶ大切さは、もはや当たり前に言われていること。

まぁ、そもそも失敗しない人って何も挑戦しない人だからね。

挑戦して(行動)失敗したひとを受け入れる寛容性(社会的にも)は大事だし、受け入れない社会はどんどん委縮して挑戦者を減らしていくだろう(リスクばかりを考えると行動しないことが失敗しない最大の方法)。

ミスや過ちを許す寛容性は、その行為の文脈を考えたり、本人に置き換えて考える思考力(ミラーニューロン)の高さが重要かもしれない。

はたして、非寛容性(寛容ではない人)の人間関係(対人関係)はどうだろう。


非寛容(寛容ではないひと)


友野(2010)は、大学生309人を対象に他人に対して非寛容な人のストレス状態について研究している。

研究によると、他人に対して非寛容な人は、他人がよく理解できない場合、話をしなくなったり、かかわり合わないような態度をとる。その結果、本人はストレスを抱えるらしい。

また、吉野・小塩(2020)は外国人移住者に対しての寛容性と性格について研究している。

移住者に寛容があるひとは、 

●外向性(他人との付き合いで刺激を求める傾向)

●協調性(思いやりがあり協力的である傾向)

●開放性(知的好奇心、創造性、そして人が持つ目新しさや多様性を好む傾向)

●勤勉性(自己コントロール能力を示す傾向、忠実に行動する傾向、達成を目指す傾向、自発的な行動よりも計画的な行動を好む傾向)

と関係があり、

反対に、非寛容なひとは、

●神経症(心理的ストレスを受けやすい傾向を表している。怒り、不安、抑うつ、脆弱性(英語版)などの不快な感情を容易に経験する傾向)と関係があるらしいです。

類似した研究だと、交流や接触の経験があると寛容性が高くなることが示されている一方、深い交流でない場合にはより排外的になると言われている(永吉、2017)。


考察


これらの研究結果から考えると、神経質なひとは本人が理解できない他人の考えや行動や些細なミスを許せない。許せないが故に関係性から距離を取り、結果的に人間関係が希薄になり、より孤独化して日々ストレスを感じて過ごしているんだろうね。

前提として、ひとはそれぞれ見え方や考え方(認知)が違う。

そのことを意識しないと、゛あの人はよく理解できない!゛となり、非寛容さが生まれるんだろうね。

図で示すとこんな感じです👇

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こういった非寛容性は、ひどい場合は集団排除につながりイジメ(長谷川、2014)やパワハラ、モラハラに発展しやすいとも言われる。

そう考えると、自分自身も寛容性を持った人間になりたいと同時に、

もっと寛容性をもった社会や集団、個人になればいいな~

江戸時代のように👇

日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。


最後まで読んでいただきありがとうございます( *´艸`)


引用文献

Enright, R. D. (2001). Forgtυeness is a chotce.Washington, DC : APA LifeTools, American Psychological Association.

長谷川真里(2014)「他者の多様性への寛容:—児童と青年における集団からの排除についての判断—」『教育心理学研究』第62巻、第1号、pp13-23

長谷川真里(2020)「異質な他者への思いやり─寛容性と社会的排除の発達」『心理学ワールド』第91号

加藤司(2000)「大学生用対人ストレスコーピング尺度の作成」『教育心理学研究』第48号巻、第2号、pp225-234

永吉希久子(2017)「日本の排外意識に関する研究動向と今後の展開可能性」『東北大学文学研究科研究年報』第66号、pp143-164

友野隆成(2010)「対人場面におけるあいまいさへの非寛容と特性的対人ス ト レスコー ビングおよび精神的健康の関連性」『社会心理学研究』第25巻、第3号、pp221- 226

吉野伸哉・小塩真司(2020)「日本における外国人居住者に対する寛容性と Big Five の関連 ─社会生態による調整効果─」『心理学研究』 第91巻、第5号、pp 323-331





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