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異世界もの苦手マンが『無職転生』にハマったという話 上 ~ルディは本当に優れているのか?~

(サムネはコミカライズ版『無職転生 ~異世界行ったら本気出す~』1巻表紙より)

 今やラノベ・マンガ・アニメの3界で一大ジャンルとなった「異世界転生もの」。「現実世界の普通の人間が突然中世ヨーロッパのようなファンタジー世界に転生し大活躍する」というその物語群は、多くの人々の心を掴んで離さないコンテンツとなっています。

 しかし、こんなことを言うのは恐縮ですが、私はあまりこの「異世界もの」というのが得意ではありません。異世界ものが流行る前(~2010年代前半?)からアニメやマンガにはどっぷり浸かっていましたが、中でもいわゆる「俺TUEEE」系があまり好きではありませんでした。物語がおもしろくなるのは、主人公が苦労をして、努力をして、その上で何かを掴み取るカタルシスがあるからではないのか。ゆえにその「俺TUEEE」をさらに濃縮したように見える異世界ものも、食わず嫌いと言っていい状態でした。

 とはいえ、何事も食わず嫌いはよくない。避けるにしてもちゃんと向き合ってから避けようと思い手に取ったのが、『無職転生 ~異世界行ったら本気出す~』でした。本作は2012年から連載を開始した、異世界ものの中でも最初期の作品です。Wikiをのぞいてみても「異世界に転生した主人公が現代の知識や魔法を使って無双する設定のハイ・ファンタジーの先駆者的作品」とある。何かを理解するにあたって「ルーツをあたる」というのは大事であり、したがってまずは『無職転生』を読んでみよう、となったわけです。

 そしたら、これがめちゃくちゃ面白い。壮大かつ緻密に構築された世界観。どんでん返しを繰り返す派手なストーリー。ヒロインたちとのロマンス。そこにはオタクのエンタメなるものがふんだんに詰め込まれている、素晴らしい娯楽作品でした。

 そしてもっと惹かれたのは、この『無職転生』という作品に散りばめられた、「娯楽作品」というだけでは言い表せない、少し影のあるニュアンス。それは、この作品が「冒険譚」であるだけではなく、ルーデウス=グレイラットという男の「人生譚」でもあるがゆえに帯びた、「人生の不条理」とも言うべき苦味です。

 そんな感想をつらつら書いていきたいと思います。なお、『無職転生』のネタバレは無制限に行います。ご注意ください。

1. なぜ異世界苦手マンの私が『無職転生』にドハマりしたか

 なぜ私は異世界ものに苦手意識を持っていたのに、『無職転生』にはスムーズに没入できたか。それは一言で言うと、「主人公であるルディの力が、ルディが自らの努力で身につけたものであること」に、説得力があったからなのだと思います。

 ルディは幼年期に魔術の才能を認められ、家庭教師となったロキシー(後に本格的にヒロインになるなんて思いもしなかった・・・!)のもとで修業に励みます。そして年齢に見合わぬ高度な魔術を身につけるわけですが、それでルディが敵なしになるかというと、そうでもない。転移事件で魔大陸に飛ばされた際には、ルイジェルドに会ったからこそなんとか生き残ることができた。しかしそれも、その最終局面でオルステッドに死の淵まで追いやられてしまう。母を助けるべく迷宮に挑んだ戦いでは、力及ばず父を喪ってしまう。彼の人生は、基本的に大きな挫折続きです。

 だからこそ、彼は常に魔術の自己研鑽を怠らないし、自分一人でできることの限界を理解して、継続して仲間づくりも行う。そしてクライマックスでは、自らの力とこれまで集めた仲間を総動員して、強大な敵を打破する。これはいわゆるジャンプ的な、「友情・努力・勝利」そのものです。

 いや、もう少し正確に言うならばこの作品は、その王道的な「友情・努力・勝利」と、「俺TUEEE」の間のバランス感覚が絶妙に上手い。ルディは基本的には敵なしと言えるほどの魔術を持っています。だから日常編だったり学園編だったり、ちょっとした敵を倒すときは、本当に赤子の手をひねるように倒してしまう。物語を読む私たちは基本的に主人公に感情移入しますから、その様はスカッとして気持ちいいものです。

 しかし、本作中でいうと「七大列強」のような、称号を持っているような者を相手にすると、やっぱり歯が立たない。だからルディは強者でありながらも、失敗や敗北を幾度となく繰り返して、そこからいろんなことを学んでいく。そして、ゆえにルディはますます強くなる。本作は、そんな反省と学習の繰り返しの描写を、丁寧に重ねていきます。

 するとどうなるか。ここが大事なのですが、私たちはちゃんと、「ルディはすごいやつなんだな」と納得できるんだと思います。

 どういうことかというと、例えば、転生前は特に秀でたところもなく努力もしてこなかった者が、転生時にチート能力を授かって、それで大活躍したとする。そういう展開がまさに異世界もの批判の恰好の的になってしまっているわけですけど、そういった物語の弱みは、「その展開って、ただチート能力がすごいだけで、主人公自身は何もすごくなくない?主人公何にもしてなくない?」という問いに答えられないということです。どれだけ華々しい活躍をしても、それは自分の中から生まれた力ではないから、「自分が優れている」ということの根拠にはならない。人は宝くじで3億円あたったことでその人間性を称賛されるわけではないように、外部から与えられた能力をもってしても、本当の自分は、結局のところ肯定できない。既に言い古されている話ではありますが、チート能力ものはそのような本質的な虚しさから、逃れることができないのだと思います。(それでもなぜ娯楽として成立するのか?というお話は後述します)

 しかしルディの能力は、他でもなく彼が自分の努力・失敗を通して得てきたものです。その素晴らしい能力は、そのままちゃんと彼の人生の成果なのです。だから私たちは本当のルディを肯定することができるし、彼がいかにもな「俺TUEEE」をやっても、それはちゃんと「彼が優れている」ことの根拠になる。読者はルディを、中身ある「主人公」として尊敬することができる。この点が、主人公が空虚に陥るチート能力ものと『無職転生』との違いであり、異世界ものが苦手な人でも、本作をスムーズに受け入れられる理由なのかなと思います。

2. ルディは本当に優れているのか?

 というのが差し当たっての『無職転生』の魅力ではあるのですが、ここで話は終わりません。本作の本当に面白いところは、本作が上記のとおり説得力をもって描いていく「ルディはすごいやつなんだ」という命題に、本作自ら、「本当にそうか?」と問いかけていくことです。

2-1. ノルンの引きこもり

 そのニュアンスがまず示唆されたのが、学園編にて妹のノルンが引きこもりになってしまったエピソードです。同じ学園に通うノルンが不登校になってしまった際、ルディは不登校の原因を探るべく駆け回りますが、結局その原因はわかりません。そしてわからぬままノルンに対面し、自分の心境を正直に話すと、次の日からノルンは立ち直るのです。ノルンは実際のところ、ルディ、そして要領のいい妹のアイシャに強いコンプレックスを抱いていた。そんな中で、自らの引きこもりに戸惑うことしかできない兄の等身大の姿を知り、自分が意固地になっていることを自覚したのです。

 とはいえ、そんなノルンの心の動きを、ルディは最後まで読み取ることはできません。彼は言います。(『無職転生』第107話より)

「不甲斐ない事だ。引きこもりの気持ち、出来ない奴の気持ちはわかると思っていたつもりだった。けど実際に直面すると、このザマなのだから。」
「恐らく、恐らくだが、ノルンは自分で自分の気持ちに整理をつけたのだろう。自分の気持ちに整理をつけて、今の状況を乗り越えたのだろう。」
「もし俺が、生前にノルンのように、自分で自分に整理をつける事ができていれば。何か変わっただろうか。あの優しかった兄貴にぶん殴られる未来は、回避できただろうか。」
「わからない。過去の事はわからない。俺とノルンでは状況が違う。整理をつけても、外に出られたかどうかはわからない。異世界に転生して、ロキシーに出会わなければ、きっと引きこもりのままだったようにも思う。」

 ルディは生前引きこもりであり、それが原因で兄と決別した過去を持ちます。だから彼はノルンに自分を重ね合わせていたのですが、自分は立ち直れなかったのに、ノルンはちゃんと立ち直ることができた。そしてその立ち直ったノルンの心の動きが、自分にはわからないのです。ノルンと違って、彼はまだ「引きこもりから立ち直れない」あの頃のままなのですから。

 にもかかわらず、彼が今引きこもらず外の世界で生活を送れているのはなぜか。それは、「異世界に転生して、ロキシーに出会えたから」。そう、彼は言うのです。

2-2. ロキシーのため息

 そのロキシーについて、さらに踏み込んだエピソードも挙げましょう。物語がさらに進み、ザノバの故郷シーローン王国の混乱を収めるべく、ルディたちが王国に乗り込んだザノバ編のクライマックス。混乱の原因だった愚王パックスはそこで、かつて自らの教師を務めたロキシーに対して、こんな叫びを投げるのです。(『無職転生』第209話より)

「ロキシー!覚えているか、昔の事だ!余が中級魔術を初めて使えた時だ!」
「余が、自分なりに勉強して!訓練して!ようやく中級魔術に成功した時!お前はどんな反応を見せた!」
「ため息だ!喜んでお前に見せた余に、お前はため息を返したのだ!『やっとこの程度か』と言わんばかりのため息に、余がどれだけ傷ついたと思っている!」

 この『無職転生』という作品は、これを敵キャラであるパックスに叫ばせるのです。本作の序盤で、あふれる才能で魔術の腕をめきめきと上げる幼少のルディと、それを褒め称え親身になって魔術を指導してくれる心優しきヒロイン、ロキシーのほほえましい交流を描いた後に。

 これを読んで、パックスにどうしようもない共感を覚えてしまう読者は、少なくないのではないでしょうか。私たちはかつて子供のころ、将来の夢として「プロ野球選手」とか、「総理大臣」といった職業を無邪気に挙げていました。しかし、だんだん成長してくると、自分が特別な才能の無い凡人であることを、否応なく理解していく。ならばせめて学校では目立つ存在でありたい・・・なんてことを考えても、スポーツができたり、話が面白かったり、見た目がいい人ばかりが目立って、「スクールカースト」なんて言葉も使われだして、自分がこの狭いクラス内ですら、特別に見向きもされない存在であることが分かってくる。好きな人ができても、その好きな人は自分よりもどうしようもなく目立った人のほうを向いていて、自分のことなんて見てくれない。努力しても自分では越えようのない壁が自分の周りに立ちはだかっていることに、だんだんと気づいてくるわけです。

 そしてその身近な悲痛こそ、他でもなくパックスが叫んだものでないのでしょうか。おそらくパックスとは、私たちなのです。

 だから、これまでヒロインとして愛でてきたロキシーが、パックスに対してため息をついた事実に、私たちオタクは少なからず衝撃を受けてしまう。ロキシーは、冴えない私たちの中身の良さを見て愛を与えてくれるような、オタクたちの女神などではない。いわば私たちが現実世界で恋破れてきた、私たちのことを見なかった、異性(あるいは同性)と同じ存在なのです。

 では、ロキシーが目を向ける人と、向けない人とを分ける分水嶺とは何だったでしょうか。もちろんいろいろ答えはありうるものの、一番大きな点は他でもない。「魔術の才能」です。魔術の才能があったから、ルディはロキシーと出会い、パックスと違ってロキシーに見初められた。そして、魔術の腕を伸ばし、本作の主人公に足る存在にまで成長できたのです。

 であるのならば、ルディが優れている一番の理由は、彼が努力をしたからとか、彼の人間性とか、そういうのではなく、単に彼に類稀なる「才能」があったからなのではないでしょうか? 才能があったからこそ、親身になってくれる教師が現れたし、才能があったからこそ、努力をすればそれに見合う成果を挙げることができ、ゆえに努力を続けることができただけなのではないか。このことは、ルディ自身がパックスと相対した際に考えており、本作が強く自覚している問題です。

2-3. ギースの本音

 最後にエピソードをもう一つ。本作のクライマックス、ギースとの最後の会話です。

 ヒトガミの使途として実質的に本作のラスボスとなったギース。彼はその頭脳を活かしルディを追い詰めますが、最終的にはルディが集めた仲間の力の前に屈します。そして彼は、信頼できる仲間を集めたルディを心から称えながらも、最期にこんな本音をポロリとこぼすのです。(『無職転生』第258話より)

「センパイにゃ、わかんねぇよな。なんでも出来て、一人で世の中を歩いていけるセンパイには。」
「俺みたいに、どうしても出来ない事のある奴の気持ちなんて、わかんねぇよな……」

 ギースはその優れた頭脳と冒険者スキルで様々な活躍を見せます。しかし重大な欠点として、彼自身は生まれながらにして、ほとんど戦闘力がないのです。どれだけ努力をしても、自分は冒険者パーティーの脇役にしかなれない。この暴力の世界で、一人で生きていける力を、あるいは主人公として身を立てる力を、持つことができない。そしてその「持たざる者」としてのコンプレックスにつけこみ、「君にも存在意義はあるんだよ」とささやきかけてくるヒトガミの手を、つい取ってしまうのです。

2-4. もう一段深いところにある虚しさ

 本作がこのセリフを他でもなくラスボスに言わせたという事実は、重いものだと思います。この『無職転生』という物語はとどのつまり、「持てる者が、持たざる者を打ち負かしていく物語」なのです。主人公は、生前引きこもりとして苦しんでいたその内面そのままに、ルディとして異世界に転生した。そしてルディは、愛に溢れた家族のもとで育ち、そして非凡な魔術の才能を持っていたからこそ、努力を重ねることができた。ロキシーをはじめ人を引き寄せ、充実した人生を送ることができた。そして、生前の自分と同じ内面を持つパックスやギースを、敵として打ち負かした。それが、この『無職転生』という物語なのです。

 だとしたら、本当に私たちはルディのことを、前述のとおり「中身ある『主人公』として尊敬する」ことができるのでしょうか? ルディはただ生まれた環境、生まれ持った才能が優れていただけであって、ルディという人間の中身を称えることはできないのではないか? あるいは、「持たざる者」であったパックスやギースに対するルディの勝利を、私たちはまっすぐに称賛することはできないのではないか? それを称えてしまうことは、「結局は『持てる者』が正しく、『持たざる者』は負ける運命にある」という、「持たざる者」である私たちにとっては甚だ不都合な事実を、承認することになってしまうのですから。

 上記で私は、「チート能力ものは本当の自分を肯定できない本質的な虚しさがある」と述べました。『無職転生』は、ルディの努力の人生を描くことで一見その虚しさを克服しているように見えながら、実は、「その努力も結局与えられた才能や環境のおかげでしかないのではないか」という、もう一段深いところにある虚しさを、覗き込んでいるのです。


「異世界もの苦手マンが『無職転生』にハマったという話 下 ~『無職転生』と親ガチャ問題~」に続く)




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