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『呪術廻戦』はなぜこんなにも人を惹きつけるのか? ~「戦う理由」の視点から~

※ サムネは『呪術廻戦』15巻、『僕のヒーローアカデミア』25巻、『チェンソーマン』11巻より。そして、本記事は以上3作品の単行本ネタバレを含みます。

 何のために戦うのか。

 それは、キャラクターが戦うことを前提としたバトル漫画においては、もはや「何のために生きるのか」に等しいと言っていい、重要な問いかけです。

 バトル漫画の金字塔である『ドラゴンボール』では、悟空はより強い者を求めて、あるいは地球や人類を滅ぼそうとする悪いやつらを倒すために、戦い続けました。『ONE PIECE』なら、ルフィは言うまでもなく「海賊王になるため」に戦いを続けます。『鬼滅の刃』なら、炭治郎は妹を鬼から人間に戻すために戦いを続けます。「戦う理由」は、バトル漫画において主人公を「バトル」へと突き動かす根源的なエネルギーであり、かつ、そこで描かれるドラマの基礎にもなる、非常に重要な要素です。

 そんな「戦う理由」からバトル漫画というものを眺めたとき、非常に特徴的な方法で「戦う理由」を描いていく作品が今、大きな人気を博しています。『呪術廻戦』です。

 2018年に週刊少年ジャンプで連載を開始した本作は、2020年秋クールより開始したアニメを発射台にして爆発的なヒット。2021年初頭には累計3000万部を突破し、日本を代表するマンガの一つとしてその地位を築きつつあります。

 そんな大ヒットバトル漫画である『呪術廻戦』で、バトル漫画の根幹たる「戦う理由」はいかにして描かれているのでしょうか。この記事で見ていきたいのは、他でもなくこの「戦う理由」の描き方にこそ、『呪術廻戦』がどうしようもなく人々を惹きつけてしまう、その魅力の秘密が隠されている、ということです。

 その「戦う理由」とは、魅力とは何なのでしょうか。それを追っていきましょう。


1. 『呪術廻戦』における「戦う理由」

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『呪術廻戦』第63話 

 『呪術廻戦』において、キャラクターたちは何のために戦っているのか。その様相を眺めてみて一目でわかるのは、この作品における「戦う理由」構築の起点が、常に「自分」になっていることです。

 例えば伏黒。伏黒はたびたび、至極個人的な感情で虎杖を助けます。

 「オマエを助けた理由に論理的な思考を持ち合わせてはいない」
 「危険だとしてもオマエの様な善人が死ぬのを見たくなかった」
 「俺は正義のヒーローじゃない 呪術師なんだ」

 客観的に見て、虎杖は非常に危険な存在です。両面宿儺の指を取り込むも、なぜか宿儺に意識を乗っ取られずに正気を保っている。しかしいつ身体の主導権を宿儺に握られ、暴走するともわかりません。そして宿儺の暴走は、多くの人間の死を意味します。虎杖を生かしておくことは、多くの人間っを常に危険に晒すことと、同義であるわけです。

 しかし、彼はそれを理解していながら、虎杖に与します。虎杖はいいやつなんです。呪いを身体に宿しつつも、人々を呪いから守るべく戦おうとする。自分はそんな虎杖のことを救ってやりたいと思う。だから、伏黒は虎杖を助けてしまうんです。たとえその結果多くの人が危険に晒されても、多くの人が救われない事態に陥る可能性があるとしても、彼は目の前の善人を、「不平等に」助けるのです。

 野薔薇も同じような「戦う理由」を口にします。

 「結局助けられる人間なんて限りがあんのよ」
 「私の・・・人生の席っていうか、そこに座っていない人間に、自分の心をどうこうされたくないのよね」

 呪いが受肉した人間を殺してしまった後の、彼女の談です。呪いが受肉しており、かつそれ以外の手段がなかったとはいえ、彼女の行いが殺人であったことに変わりはありません。ゆえにその自らの行いに恐怖や後悔を抱いたとしても、何らおかしなことではないでしょう。

 しかし、彼女はその逡巡を、「相手は自分の人生の席に座っていない人間だから」という理由ではねのけてしまうのです。この彼女の哲学は追って語られる彼女の幼少体験から来るものなのですが、そこには「自分の意識が届く範囲で、自分の意識に忠実に生きればいい」という力強い割り切りがある。「人を助けなくていい」と言っているわけではありません。ただ、彼女の生き方の奥底には、大前提として「自分がどう生きるかは自分で決めることができるし、決めるべきだ」という信念があって、その範囲内で、呪いを祓い、人を助けている。まず「自己」の確立があって、その後に他者が配置されていくわけです。

 そして本作の悪役、夏油の行動哲学も本質的には同じです。彼はかつて「非力な非術師を守ること」を信念としていましたが、高専時代の理子の護衛の失敗などを経て、非術師という「猿」の絶滅を目的にして生きるようになります。もちろん、この考え方に対しては様々な批判が可能でしょうし、これは絶対の正義でも何でもありません。しかし、彼はその壮絶な経験を通してその結論に至り、そこから脇目も振らずに歩みを進めるのです。非術師の皆殺しが正しいと、自分がそう強く信じているからです。

 このように『呪術廻戦』はただひたすらに、自分の道を突き進む者たちの戦いを描くのです。彼ら彼女らの「戦う理由」の起点に「自分」があるというのは、こういう意味です。

2. 「自分」と公の価値とのジレンマとその超克

はめつ

『はめつのおうこく』1巻表紙

 とはいえ、「戦う理由」の起点に「自分」があるというのは、何も『呪術廻戦』だけに特徴的なものでもなんでもありません。

 例えば、最近ヒットしているマンガで『はめつのおうこく』という作品があります。魔女が迫害される科学が発展した世界で、魔女の師匠を殺された人間アドニスが、魔女以外の人間を皆殺しにしようとするお話です。戦う理由を「復讐」の2文字のみに凝縮させ、凄惨な戦いを進めていくその様は、まさに「自分」の怒りを最大かつ唯一の起点としています。

 あるいは、同じジャンプだと『チェンソーマン』が何よりの好例でしょう。貧困に苦しんでいた青年デンジが、旨い飯と好きな女性にお近づきになるために気の赴くままに悪魔と戦い続ける本作。彼の戦う理由は、悪魔から人を救うとか、そんなお行儀のいいものではありません。ただただ自らの欲望のために、彼は戦いに身を投じるのです。これ以上なく、「戦う理由」が「自分」に収束しています。

 このように、「戦う理由」の起点が「自分」にあるというのは、現代のマンガの標準装備の一つになりつつあると言っていい。それ自体は、『呪術廻戦』だけの特徴とは言えないわけです。

 では、『呪術廻戦』の「戦う理由」に本作だけの魅力の秘密があるのだとしたら、それは何なのでしょうか。

 結論から述べます。それは、本作が「戦う理由」の起点に「自分」を据えるとき、本来そこで生まれるはずの公の価値との緊張関係を、無視してしまうことです。

2-1.  「自分」と公の価値とのジレンマ

 先ほど挙げた『はめつのおうこく』を再び例にとって話を進めます。

 『はめつのおうこく』で主人公アドニスが行うことは、紛うことなき大量虐殺です。ゆえに主人公の行為は本来道徳的に許されるものではなく、その行いの凄惨さは、作中でもしっかりと強調されていきます。そして何よりアドニスの旅には、彼の血塗られた虐殺を止めようとする、ドロカというヒロインがずっとついてくるんです。虐殺を非難するドロカをアドニスの横に常に配置することで、アドニスの「戦う理由」が、「人を殺してはならない」という公の価値に反していることを、作中でちゃんと明示し続けるわけです。

 『チェンソーマン』も同じです。本作は、人々が恐れている概念、物体に関する悪魔であるほど、強くなります。だから、チェンソーの悪魔である主人公は強いんです。しかし作中でデンジが悪い悪魔と戦うヒーローとして有名になってくると、みんなチェンソーを好きになって、恐れなくなる。だから、彼はだんだん弱くなっていくんです。自分のために戦っていた彼の戦いが、「人々を救う」という公の価値に染まっていくと、彼は弱くなっていく。これもまた、非常にユニークな方法で、「自分」に帰結する「戦う理由」が、公の価値と緊張関係にあることを示す表現になっているのです。

 今この緊張関係に最も苛まれているマンガが、『僕のヒーローアカデミア』ではないでしょうか。ヒーローのひな形と言えるような、人々を救い公に資する英雄たちを描く本作。本作はその公のための戦いと同時に、「自分のために生きる」という私的な価値をも導入してしまったことで、非常に過酷な領域へとその物語を進めています。

 例えば、本作の悪役である死柄木の過去のエピソード。この死柄木というヴィランは、主人公の先々代のヒーロー、志村菜奈の孫なのです。菜奈はヒーローとしての立場を原因として、家族という私的な関係を捨てます。しかしそのつながりの破棄は、やがてヒーローにあこがれていた死柄木を孤独へと追い詰める。そして彼はついに、ヒーロー全体を脅かす強大な敵へと成長してしまうのです。

 菜奈は、ヒーローという公の価値と、家族という私の価値、どちらをとればよかったのでしょうか?自分の悲しみを、怒りを原動力に多くの人々を害し続ける死柄木を断罪する正義が、ヒーローにはあるのでしょうか?

 公の価値の体現たる「ヒーロー」を描いていたはずの本作は、「自分」に帰結する「戦う理由」を導入することで、公の価値と「自分」との対立関係をテーマに据えつつあるのです。(なお、2021年初頭よりジャンプ本誌で進んでいる某ヒーローの家族のエピソードもこの流れにあることは、もはや言うまでもないでしょう。)

 というように、「戦う理由」の起点を「自分」に据える場合、そこには必ず、公の価値との緊張関係が生まれてくるのです。その双方の引力に引き裂かれながら、その間でいずれを選択するのか?その逡巡が、難しさが、懊悩が、一つのドラマになってくるわけです。

2-2.  ジレンマの超克と「反伝統」

 しかし、『呪術廻戦』の恐ろしいところは、その逡巡や懊悩を踏みつぶして、「戦う理由」の起点が「自分」にあることを、もはや当たり前のこととして描いてしまうことです。

 伏黒は、悩む描写も決して多くないうちに、公の価値からして危険な存在であることに間違いない虎杖を、「自分が生きていてほしいから」という理由で、生かす選択をしてしまう。野薔薇は殺人という罪を犯してしまっても、悩む素振りを見せずに「自分の人生の席にいないやつだから」と言って、その罪を受け入れてしまう。そして夏油も、彼は長く苦しい煩悶を経てはいますが、「非術師は猿だ」と断じてその途を突き進んでしまう。おまけに最強の師匠である五条先生は、自らの覚醒への興奮から「天上天下唯我独尊」なんて口走ってしまう。彼ら彼女らは、自らの望みと公の価値との間のジレンマに逡巡するステージにはいません。彼ら彼女らは、私たち読者に前に現れたときは既に、公の価値などに囚われず、我が道を行く力強さを手に入れているのです。

 それは、いわばピカレスクものにも類似した、妖しく光る魅力があるわけです。鮮やかに盗みを続けるルパン三世、自らの手を汚し帝国転覆を狙うルルーシュ、犯罪の町ロアナプラで法律無視の稼業を続けるレヴィ・・・ 明確に犯罪や反道徳に手を染めている時点で、彼ら彼女らと伏黒や野薔薇は違います。ただ、世間のしがらみや価値に囚われず、我が道を行くルパンたちに、私たちは言いようもなく惹かれてしまう。それと同じように、公の価値にがんじがらめにならず、我が道を確立して、その道を突き進んでいける伏黒や野薔薇、あるいは夏油に、魅力を感じずにはいられないのです。

 そしてこの伏黒たちの力強さが本作の魅力の「表側」であるならば、本作は「裏側」の魅力として、もう一つのスパイスをこの作品に振りかけています。それは「反伝統」です。

 本作は日本古来の概念たる「呪い」をテーマにしているだけあって、呪術師を囲む、その伝統的な組織体制についても手厚く設定されています。しかし禪院家、五条家、加茂家の御三家を中心とするその有様は、ひどく醜悪なものとして描かれていきます。女性というだけで不当な扱いを受ける禪院姉妹。嫡子・庶子の違いの中で運命を決定づけられた加茂先輩。それは、伝統という悪しき公の価値が、個人の生を歪めていく景色です。

 あるいは、本作における「田舎」の描写にもえぐみがあります。時折語られる野薔薇の過去は、都会から来た者への迫害、不快感を催させられる因習など、彼女の故郷のおぞましさを刻銘に描き出します。また、夏油が遭遇した上記の少女を迫害していた田舎の村も、これに類するものでしょう。それは、田舎という古い公の世界が、個人の生を歪めていく景色です。

 こうしてこの作品は、私たちの個人の生を、「自分」の確立を歪める古き悪しき公の価値を、露悪的といっていいほどに見せつけてくる。その一方で、公の価値を踏みつぶして、我が道を行く者たちの強さを魅力的に描き出す。これらの要素が表裏一体となって、逡巡やジレンマなどといった領域をとうに超えた、100%「自分」を起点とした「戦いの理由」が、力強く提示される。これが、バトル漫画としての『呪術廻戦』を支える、「戦う理由」の構造なのです。

2-3.  『呪術廻戦』を支える「戦う理由」と私たち

 これは、現代の私たちにとって、本当に魅力的なんだと思います。現代の私たちは、ずっと私たちを縛ってきた価値観や伝統に、今やますます反旗を翻しつつあります。例えばつい先日も「女性のいる会議は~」と発言した老人がその地位を追われたように、かつて支配的だった、女性を男性視点から偏った目で見るような考え方は、もはや駆逐されつつある。「まともな大人は結婚しているものだ」、「サラリーマンはモーレツに働くものだ」といった旧来の価値観は厭われ、個人を縛る地域社会(ムラ社会)や伝統は崩壊しつつある。そんな時代の意識において、旧態依然とした社会や価値観を強烈な嫌われ役として描くストーリーは、非常に甘美に響くのです。

 しかしながら、伝統や支配的な価値観が薄れるということは、同時に私たちの生き方を示す道しるべが失われるという事も意味します。「当たり前」の生き方が取り払われた今、私たちは私たちにとって最善の生き方を、自分で見つけ出さなければならないのです。

 これは以外と難しいもので、明確な「正解の生き方」がないから、自分よりちょっとうまく生きているように見えるひとと出会ったらそれにすぐ嫉妬してしまったり、「好きなことして生きていく」が称揚されても自分の好きなことが何なのかよくわからなかったりして、生き方がブレブレになってしまう。しまいには「正解」を求めて、脱却したはずの旧来の価値観(「結婚はするべき」とか)に舞い戻ったりしてしまったりもするわけです。(『タラレバ娘』、『タラレバ娘2』はこのあたりの現代的なマインドを鮮やかに描き出しており、秀逸です。)

 そんな私たちにとって、迷う素振りを見せず、我が道を突き進むことができる伏黒たちは、なんと魅力的に見えることでしょうか。彼らは強く迷い、ふさぎ込んでしまっても仕方がないような過酷な環境にいます。伝統に苛まれ、抑圧され、友と力なき人々との天秤を迫られ・・・ しかしそれでも、彼ら彼女らはその道を曲げません。自分の友を信じて、あるいは自分の生き方を信じて、苦しい選択を乗り越えていくのです。そしてその姿は、一般的な価値が失われ生き方に逡巡する現代の私たちにとって、まさに理想の姿であるのです。

 これが、『呪術廻戦』の「戦う理由」が、現代の私たちの心を惹きつけてやまない秘密なのだと思います。

3. 補足 -渋谷事変はなぜ地獄なのか-

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『呪術廻戦』132話

 ・・・というのが本記事の終着点ではあるのですが、ここまでたどり着いたからこそ言える話を最後に添えさせてください。

 ここまでの議論で、あえて一切その「戦う理由」に言及しなかったメインキャラが一人います。そう、本作の主人公である虎杖くんです。

 虎杖くんはこの作品の主人公でありながら、少々特殊な役回りを担っています。それは、彼が「一般人が突然この廻戦に巻き込まれてしまった」存在であるということです。

 彼はこの戦いに巻き込まれた時点で、既に「死」が約束されています。宿儺の指を取り込んだ時点であまりに危険な存在となった彼は、その存在が明らかになるや否や即死刑が決定。五条先生の尽力により、20本の指を取り込むまでの執行猶予をなんとか確保している状態です。そして彼はそんな死と隣り合わせの状況、あるいは序盤で出会った順平の死を目の当たりにした経験から、「正しい死」を求めて、戦うようになります。

 つまり、彼はいきなり戦いに巻き込まれ、「戦う理由」がまだ確定していません。自分がどこに(どんな死に)向かっているのか、誰がどんな終わりを迎えるべきなのかわからないから、それを理解するために彼は戦っている。自分なりの「戦う理由」を持つことを賛美する作品において、まだ自分なり「戦う理由」理由が見つかっていないから、それを探している等身大の存在。それが、主人公虎杖君なんです。

 そんな彼が挑んだのが、本作中盤の山場である渋谷事変です。

 渋谷事変で彼は、ついにその存在の危険性を露見させます。宿儺に意識を奪われることによる一般人の大量虐殺です。そしてそのような所業を犯しておきながら、彼はナナミンも救えません。で、彼は言うんです。

「もう意味も理由もいらない」
「この行いに意味が生まれるのは俺が死んで何百年もたった後なのかもしれない」
「きっと俺は大きな・・・何かの歯車の一つにすぎないんだと思う」
「錆びつくまで呪いを殺し続ける それがこの戦いの俺の役割なんだ」

 彼にはもう、自分なりの「戦う理由」を追う資格なんてないということです。生きてしまったばかりに無辜の人々を殺した。それでいて大切な人も救えない。彼に許されたことがあるとすれば、生きている限り、機械のように呪いを祓い続けることだけなのです。

 これを、他でもない、自分なりの「戦う理由」を賛美してきた『呪術廻戦』がやるんです。これはおぞましいことではないですか。あんなに自分なりの「戦う理由」を!!と散々言っておいた上で、この作品はそれを主人公から奪い去ってしまうんです。

 これはキャラクターにとって、ある意味最上の「否定」だと思います。冒頭で私は、「キャラクターが戦うことを前提としたバトル漫画においては、(「戦う理由」は)もはや「何のために生きるのか」に等しいと言っていい、重要な問いかけで」ある、と言いました。だからこの否定は、キャラクターにとって「生きるな」といっているようなものなんです。

 『呪術廻戦』はなぜこんなにも人々を惹きつけるのか。その秘密は「戦う理由」にあります。そして渋谷事変がなぜこんなにも地獄なのか。その秘密も、やはり「戦う理由」にあるということです。そこにはある意味一貫性があって、この『呪術廻戦』という物語が極めて完成度の高い作品であることの、何よりの証拠だと思います。

しかし・・・性格が悪い。素晴らしいほどに!!


(終わり)


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