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歩く春

春もみじというのか、色づいた葉の散り敷いた雨上がり。あたりは明るい。
昨晩まで続いた風雨がうそのように晴れている。傘を持つ手に力を込めて歩いた昨日は、易々と遠ざかる。
強くなり始めた紫外線に目を細め、手をぶらぶらゆらゆらと振りながら、いつもの道を行く。今日という日。

昨日の雨は滝のようで、周囲をいっさんに白く染め、全てのものを打ち消すが如く降っていた。風は轟々と吹き荒れ、若葉を茂らせ始めた鉢が倒れてしまわないかと気持ちも揺さぶられる。ようようたどり着いた自宅で、窓をつたう水の流れを見ながら、どんなに地球の環境が壊され気候が激烈になろうとも、ここで生きていかなくてはならないのだな、と思ったりした。


ただひたすら歩く、というイベントに参加したことがある。その距離43km。フルマラソンと同じ距離を、朝から夕刻まで、基本的には休まず飲まず食わずで歩く。子どもの頃は母と、一昨年は一人で参加した。どちらも時季は今ごろ、3月の半ばのことだ。
子どもの頃何を考えて歩いたのか、もう忘れてしまったが、一昨年のことはまだよく覚えている。


走るのと違い、当たり前だが一歩一歩足で地を踏み進むしかない。序盤は楽しく、中盤は飽きないように工夫しながら歩いた。

子どもの頃に比べあれもこれも身につけた身体。さすがに終盤は脚の筋肉が鉛のように重い。街路を歩き、タイムを競う大会ではないので、横断歩道があれば信号待ちをする。その度に背伸びをして、骨格を整えるイメージを頼りにひたすら脚を前へ前へと動かした。

イベントそのものが往路と考えると、復路すなわち帰路は電車を使う。ゴール地点の最寄駅に電車が入ってくると、初めて動く乗り物を見たかのように車体を見つめた。自分の足で歩まずとも電車が我が身を運んでくれることへの感激。えっこれ乗っていいんですか?ええー座ってもいいんですか。歩かなくても移動できるなんてほんとうにいいんですか?と。駅の階段はがくがくする脚をくらくらふらふらさせながら下りる。
それから2年。

もうその大会は無い。あれば何も考えず、また歩いてみたい。彼の地の、あの巡礼のことが脳裏をよぎったりもするが、いまの私にリアルな話ではない。

コースの終盤、それもあと2、3kmという辺りになると、心を占めるのはなぜか感謝の念だった。帰ったら待っていてくれる人がいるんだな、歩ける身体でよかったな、など。

歩くことで、こころの澱が流されるのなら。
今立っている場所から、スタートする。




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