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12月になると「光陰矢の如し」と思うのはなぜか

「光陰矢の如し(こういんやのごとし)」ということわざがあるように、時の流れは自分が思っている以上に速い。
1日、1週間、1ヶ月、1年・・・油断をしているとあっという間に過ぎてしまう。
特に、12月に入り「今年もあと〇〇日で終わりだ…」などと新年までのカウントダウンが始まると、さらに加速していく。
そして、厄介なのが、年齢を重ねれば重ねるごとにさらに加速に加速し、ちょっと前までお正月だったはずなのに、もうお正月がやって来たなどと時間の感じ方がちょっとおかしくなってくる(笑)。
そのようなことからもわかるように、1年なんて本当に「あっ!」という間に過ぎていくのである。

しかし、時計はいつも規則正しくチクタクチクタクと「時」というリズムを刻み続けているし、毎日太陽は昇り沈んでいくし、月は満ちて欠けるし、地球は相変わらず自転している。(若干のズレはあるんだろうけど…。)
また、犬や猫、鳥などの動物たちも「自然という時計」を頼りに、寝て起きて、餌を食べて、活動をする。時季が来たら冬眠する熊などの動物たちもいる。
自然も動物たちもそれにも関わらず、なぜ私たち人間はこのように感じるのだろうか。

人間には「時間」という概念があるからという答えはごもっともだとは思うけれど、この地球生物のなかで人間だけがこの自然のリズムや時の流れに乗れていないのではないか……。否、どちらかというと外れてしまっている気がしてならない。人間が人間のために作った「道具」によって。
電気、テレビ、スマホやパソコン――思いつくままに書き連ねたが、これらは自然や動物の世界にはないものだ。
電気があるおかげで部屋を明るくして活動することができる。
テレビがあるおかげで色んなコト・モノ・ヒトのことを知ることができる。
スマホやパソコン(元をたどればインターネットということになるが)のおかげで、日本のみならず世界中の情報に24時間365日いつでもアクセスすることができる。
やろうと思えば仕事だってできる。そんな時代である。

文明や科学の発展によって私たち人間も進化をしてきた。それは確かである。
しかし、これらの発展によって何時まででも起きて活動することができるようになり、夜はどんどんと長くなった。
夜が長くなると、今度は私たち人間は何かをしなければならないと思うようになった。常に何かをしていなければ気が済まない、落ち着かない、人によってはいつも何かをして動いていなければ死んでしまうと思い込み、常に自分にタスクを与え、こなそうとするようになった。
気付けば何だかいつも忙しい。たとえそれが仕事だったとしても、息つく暇もなく「いつも何かをしている」状態。時にはあれもして、これもして、と「マルチタスク」なぞをしてしまうこともあるかもしれない。
マルチタスクが常態化すると、厄介なことに、なぜかだんだんと楽しくなってくる。変なスイッチが入る。ゲームをクリアするかのごとく、積みあがったタスクをいかに効率よくこなすかが目的化し、忙しい自分に酔いしれることもあるかもしれない。
時間、仕事、タスクがいつも自分の回りをつきまとい、いつの間にか同化してしまっているかもしれない。
同化してしまったら最後、その状態が「フツー」の状態へとなっていく――。

私たち人間は1年の始まりを1月、終わりを12月として、12月になるとふと立ち止まり、1年を振り返る。
しかし、もしこの区切りがなかったら私たちは1年を振り返ることをせず、自然のリズムを忘れ、電気とともに「あれもしたいこれもしたい」とマルチタスクで常に活動をし続けるのだろう。
マルチタスクがフツーの状態になると、記憶に残らないような日常や些細なことはほとんど思い出すことができなくなる。家で食べたごはんの味、家族と家で話したこと、今年見た景色や風景、自分自身のこと・・・覚えているだろうか。
「そんなこと覚えていなくたっていいよ。」とか「覚えておく必要がない。」なんておっしゃる方もいるかもしれないが、いざ思い出そうとしてみると「あれ?私はこの1年、何をしてきたんだろう。」と何も思い出せず、自分には何も残っていないことに気が付き、虚しさだけが残るかもしれない――。
これが12月になると光陰矢の如しと思う背景だと私は考える。

だから、せめて12月は自分の過ごしてきたこの1年を振り返ってみよう。そこに何も残っていなければ、来年の過ごし方を工夫すればいいだけだ。次に活かそう。
ただし、振り返るためには「静けさ」が必要だ。
自然のリズムや時の流れに身を任せ、電気、テレビ、スマホやパソコンの電源を落としたり音が出ないようにし、一時的でも構わないのでマルチタスクを止めるのだ。
音のないシーンとした部屋でひとり静かに過ごすのもよし、家族や仲間との食事やお酒を楽しみながら、他愛のない話や1年を振り返るのもいいね。静けさがあればなんでも構わない。
是非、静かなときを過ごしてほしい。