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肩こりから考える、身体の不調に関する考察

最近、つくづく「肩はこって当たり前」と思っている。

例えば、肩こりから解放されたいと思って肩だけをマッサージしても、肩こりは一瞬解れて和らぐが、数日するとまた肩がこっているということがある。
肩こりの原因は、実は首や腰など他の部位や股関節にもあったりする場合があるし、そして肉体的な原因のみならず、その根本原因は心理的なことだったりする場合もあるから、原因を探ることは非常に難しい。
私を含め、肩こりから解消されたい方は、「あれが原因かな…これも原因かもしれない…。」と思いを巡らせることがよくあると思うが、推測の域を越えることは決してない。整体や病院に行っても、「~が原因かもね。」ぐらいしか先生は言わないはずだ。
原因が特定されないという歯がゆさを感じる方もいるかもしれないが、そもそも自分でわからないのに他人にわかるはずもない。特に心理的なことは。
だから、原因の追究はしすぎない方がいい。自分の心の健康のためだ。

だから、肩こりもそうだけど、ストレートネックや巻き肩、反り腰、O脚、身体が硬い…etc. なんていう言葉は全部「概念」でしかないって最近よく思う。
人間というのは、不可解なものにすぐに名前を付けて、物事を型にはめようとする。人間にとって、共通言語になってわかりやすくなるのはいいんだけどね。
でも、型にはまるほど、人間の身体や心って単純じゃないって思う。
身体は皮膚や筋肉や脂肪、骨、臓器、神経等がつながって動くものであるし、心だって何かを感じたり、揺れ動いたり、思いを巡らせたりして常に動き続けているものであるから。
その複雑さや繊細さをたった一つの言葉で表せるはずもない。

「〇〇さえすれば治りますよ。」
「たった〇分で、〇〇をするだけで解消する。」
「〇〇なのは、あなたの〇〇のせい。」

こんな言葉には要注意だ。

大人になればなるほど、役割、人間関係、やりたいけれどやれないこと…そういったものが増えていく。そして、自分以外のものを優先させていく。それは仕事かもしれないし、両親や家族のことかもしれないし、子どもがいれば子どもを最優先に生きていく。それが大人という生き物なのだ。

そうすると、「気付いているけど治せないもの」が必然と出てくる。そう、本人が一番よくわかっている。わかっているけど、見て見ぬふりをしている。だって、自分以外の大切な存在がいるんだから。

身体の不調は何年も積み重なってできたもの。
小手先のテクニックだけで、その人たちを癒せるとは思わない。
そんな人たちに、もう少し優しい言葉を使って、歩み寄るところから始めてもいいんじゃないかな。