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「縛った」とカルテに記録せよ(後編)

前半の記事で、病院施設での高齢者の身体抑制を廃止するきっかけの1つになった出来事が、「抑制をしたらカルテに『縛った』と記録せよ」という、院長の指示であったことを書いた。

私は拙著『医療者が語る答えなき世界』の1章で、高齢者の身体抑制を縛る側の医療者の観点から描いている。その執筆のために、高齢者の身体抑制を全国に先駆けて廃止した、当時の上川病院の婦長である田中とも江さんにインタビューを指せてもらったのだが、その時の田中さんの表情が私は今も忘れられない。

田中さんが、たくさんの高齢者を限られた看護師でケアしなればならない、まさに仕事に忙殺される現場で働いてから、もう10年以上の時が流れている。

でも田中さんは、「(抑制のことは)いまでも思い出すとつらい。ほんとうにつらい。いまでも悪いことをしたなあ、と思う」と、それがまるで昨日起こったことであるかのように話していた。

自分も抑制にたずさわっていた、田中さんの身体には、縛られる高齢者患者の皮膚の肌触り、筋肉の重さ、拘束に使われる道具の質感が、いまでもしっかり刻まれていて、抑制のことを考えると、その記憶がありありと蘇ってくるのだろう。

田中さんは、すごく元気のいいおばあちゃんで、話し方もはきはきして、こんな風に年をとれたらかっこいい!と思わせてくれる女性だったけど、あの時だけは、ほんとうに苦悶の表情を浮かべていた。

「抑制」という言葉で、やっていることを正義にみせても、実際にそれをやっている人の心には「縛った」という事実が残り、それが人をこんなにも長い間傷つけている。それをみて、私は一瞬次の質問を失ってしまった。

縛られる側も、縛る側の心もきしむ。

心がきしまないようにするには、相手を人間として見ないか、自分を心を完全に閉ざすかしかない。

それが高齢者の身体抑制の現実なんじゃないだろうか。



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