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彼の毒と私の恋



  彼は致死の毒を持っている。一昨日デートした時だって、私が彼を好きにさせるはずだったのに、彼にもっと好きにさせられた。こうして、一人ワンルームでぼーっとしていると、胸が苦しくて苦しくて、張り裂けそうで、今にも泣き出してしまいそうなほどには、彼の毒にやられている。頭と胸にもやがかかっている。心臓に彼の手形がずっと残っていて消えない。でも、きっと彼は、私のことを好きじゃない。

  まだ残暑が厳しい9月の頭は、まとわりつくような夕方の暑さが私の脳みそを焼き焦がした。
  きっと夜になると涼しくなるし、お気に入りのワンピースを着て行きたいけど、彼は、もっとラフな女の子の方が好きかもしれない。しかも今日は暑い。ほんとに26℃まで、気温は下がるのかな。なんて考えていると、時間はどんどん迫ってきて、焦ってしまってコンタクトがうまく入らない。最悪です。今日の化粧ノリは微妙。まぁ、及第点。急いで電車に乗って待ち合わせの場所まで行くと、彼はいなかった。まあ、ちょっとだけ早く出たからね。音楽でも聴いて待っていよう。彼から<ほんのちょっと遅れる>のライン。<おっけー!>と返信。


「お姉さん、誰かと待ち合わせですか?」

  ふと顔を上げると、彼がニヤリと笑って立っていた。
「もう!遅い!!」
  はい、あなたを待っていました。なんて、本当のことだけど、恥ずかしすぎて言えない。
「ごめんちょっとだけタバコ吸わせて?」
笑いながら隣に座って、彼はタバコに火をつけた。
「久しぶりだね、最近何してたの?」
「ずっと仕事だよ。けいすけは?」
「俺も」
「じゃあ二人ともお疲れだね」
「そうだね。疲れたね」
  ちょっとだけぎこちない会話がつらつらと続いて、じゃあ店行こっか。と、居酒屋へ行っても、前みたいにうまくしゃべられない。二杯目のビールを飲んで、お刺身を二人で「美味しいね」って食べて、ああ、今、この人の一番近くにいるのは私なんだ。という幸福感と、うまく喋らなきゃ、という焦燥感で、頭がいっぱいいっぱいになる。呂律も回らない。
「吉田は好きな人とかいないの?」
  突然彼が聞いてきた。
「いやいないよ。出会いないし」
「まあねぇ」
「けいすけは?」
「俺もいないよ」
「まぁ、怖いもんね。恋するのって」
「怖い?」
「だって、振られちゃうかもしれないし、相手は私のこと好きじゃないかもしれないし、付き合っても、うまくいかなかったらどうしよう、とか、考えるじゃん」
「う〜ん」
「けいすけは考えない? この人のこと好きになったら怖いな、とか、もう後には引けなくなるな、みたいな」
「考える。考えるけど、それってその人のこと好きになったら、人間関係壊れちゃうな、とか、そういうことじゃないの? 好きになっちゃダメな人って、いるじゃん」
  ドキリとした。心臓が勝手にバクバクして、さっき食べた枝豆が出そうになった。その言葉は、私にとって、致死量の毒。こんなに距離は近いのに、心の距離はまだまだ遠いのかもしれない。すごく辛いし、苦しいし、泣きたい。
  お店を出て、街の中心を流れる川のへりに座って、お酒を飲む。私が、
「まだ早いしさ、この後私の家で映画でもみない?」というと、彼は
「うん」
と、確定かどうかわからない気の抜けた返事をした。
  電車に乗って、私の最寄りの二つ手前で、「ごめん、やっぱり今日帰るわ」
と、彼は言った。私は彼の猛毒にあてられ、瀕死寸前の声色で、「うん。またね」と別れた。

「ねぇ、どうしたらいいと思う!?」
「ん〜、むずかしいね〜」
  親友の芽衣子とカフェに来ても、私の心のモヤモヤは晴れない。
「あきらめちゃえば。その方がスッキリするよ。今ならまだ傷も負わずに済むじゃん」
「やっぱ、そうかなぁ〜。むりかなぁ〜」
「まあでも、ヨシちゃんが決めることだからさ。苦しいのを我慢して、最高の幸せを手に入れるか、それとも、もう諦めちゃうか」
「なにそれ、そんなの諦められないじゃん!」
「ははは、ヨシちゃん負けず嫌いだから」
  芽衣子は他人事のように笑って、プリンを一口食べた。
「でも、苦しいのを我慢して、頑張っても、その人と結ばれるとは限らないもんね」
  私がそう言うと、芽衣子は静かに、うん、そうだね。と、紙ナプキンで口を拭いた。
「ヨシちゃん。この後飲みにいこうよ! おごるよ〜!」
「なにその振られた友人を励ますやつ!でも、いく!」

  彼の毒は、まだ私の身体に残っている。ずーっとずーっと、残っている。9月の残暑が無くなる頃には、この毒も、私の身体から、消えてなくなっているのかな。

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