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『迷子犬と雨のビート』

曲のタイトルから小説一本書いてみよう企画(自主開催)

ASIAN KUNG-FU GENERATION
「迷子犬と雨のビート」
※歌詞の世界観とは関係がありません。多分。

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雨が降る公園の中を、一匹の犬が走り回っている。

その光景を切り取ってタイトルをつけるとしたら、『自由』だ、と不意に思った。

『自由』

写真や絵の展覧会があれば、おそらく一つの作品には必ず付けられているであろう、ありふれたタイトル。だけど、展示された作品の中で、一番自由らしい自由だけが名乗ることを許されるタイトル。簡単そうでとても難しいテーマだと思う。

雨と遊ぶように飛び回る犬は、心からその瞬間を楽しんでいるように見えて、それは圧倒的に『自由』だった。

回りに人影はなかったものの、こんな都会で野良犬を見かけることはそうそうないので、もしかしたら飼い主とはぐれてしまった迷子犬なのかもしれない。

迷子なのに、自由

迷子だから、自由

君はどっちなのかい?と犬に直接問いかける自分を想像して少し笑ってしまう。同時にそんなファンタジー思考が自分の中に残ってることに、何故か安心して泣きたくもなる。自分のファンタジー思考の欠片を認識したついでに、彼(大きい犬なので勝手にオスだと思っている)の半生を勝手に想像してみる。

生まれたときから、狭いケージで暮らし、外へ出るときは首輪やリードに繋がれ、好きなときにご飯も食べられず、やりたくもない芸を教え込まれる。そして本当は雨が好きだけど、飼い主は雨が嫌いなので散歩にいけず、家で眺めることしかできない。

そんな日々から解放された彼(犬)
迷子だから、自由、の方の彼(犬)

一方、自分の半生。仕事に縛られ、狭い社会で暮らし、好きなときに遊びにも行けず、やりたくもない役回りをさせられる。そして本当は雨の中を歩くのが好きだけども、周りに合わせて雨が憂鬱なフリをして、差したくない傘を差す。そんな日々を繰り返し、そして今、犬をみて憧れを抱いている。

今この状況で圧倒的に違うのは、迷子になる勇気がないので、彼の人生を勝手に想像して、勝手に羨ましがって、勝手に諦めてるだけの、自分。

このご時世じゃ、道はナビが案内してくれるので物理的に迷子になるなんてなおのこと、働く人より働き口を紹介する人の方が多いのではと思うくらい、コンサルタントという職業が普及しているので、人生の迷子になるなんてことはもっとレベルが高い技だ。

でも、ほら、自由になって良いよ、と誰かに(そもそも誰にだ)と許可をもらったとして、結局俺は雨の中を走り回ったりはしないんだろう。つくづく人間だ。

自由だと、迷子。

、、俺の場合は詰みじゃねぇか。と言うか、こんなこと三十も半ばに差し掛かった男が、センチメンタルに考えることだろうか。

聞いてくれる人もいない、行き場も形も無いよどんだ想いが、大きな雨音の壁に弾かれ、頭の中をも雲のように覆う。

電光石火、犬は何かに向かって一直線に走り出した。その先には大きく傘を振る人影。

なんだ、結局飼い主いたのかよ、あんなにブンブンしっぽふって、雨と遊んでるときより嬉しそうじゃねぇか、

と勝手に裏切られたような気になった俺は、外回りついでサボり時間をめいっぱいに使ったのもあって、ようやく会社へ歩き始める。

道中、例の犬とその飼い主とすれ違う。と、犬がチラッとこちらを見て、ヘラっとはにかんだように笑う

「飼い主には媚売っとかないと、ご飯食べられなくなっちゃうからね!」

自分を慰めるだけの、都合のいい妄想。

その都合のいい妄想に後ろ髪引かれる思いで、何となく振り返ってみると、すれ違った人全てに興味があるタイプの犬らしく、捻るように俺の方へ身体を向ていた彼につられた飼い主と目が合った。

思わず話しかける。

「見つかって良かったですね」

まさか話しかけられると思っていなかったであろう飼い主は、一瞬驚いたような表情を見せせたが、

「よく出かけるんです、この子」

と少し困ったような、はにかんだような笑みを含めて返してきた。その顔はさっきの彼と少し似ている。

「出かける、ですか」

俺の中では犬を主語にしたときに使う予定のなかった語彙を食らって、思わずタラちゃんのような間抜けな台詞を返す。幸いなことに飼い主は別のニュアンスの方に捉えたらしい。

「雨の日は特に、出かけたがって、不思議なんですけど」

「犬の普通は分からないんですけど、けっこう濡れるの嫌うイメージはありますね」

「いや、なんというか、、この子、雨の日に、拾ってきたんです、と言うか、保護?したんですよ昔、しかもどしゃ降りで、普通、なんかトラウマになるんかなと思うんですけど」

変なところに句読点が入る話し方だな、というのは置いておいて、自分が想像していた過去とは違って、わりと壮絶な人生だった彼に、都合のいい妄想を押し付けていたことをこっそり謝罪する。

「確かに、、でもさっきすごく楽しそうに走り回ってましたね」

「基本毎日欠かさず散歩は行くんですけど、私が結構雨の日が好きで、、そういうの伝わってるんですかね」

雨が好きとは変わっている。自分のことは高い棚においた感想を飲み込んで

「拾われた記念日なのかもですね、彼にとっては」

「女の子です。あめって言います。この子にとっては確かに、新しく人生が始まった日なのかも、しれません、」

相変わらず句読点の位置はおかしいが、言うことははっきりいう物腰は嫌いではなく、むしろ彼女なりのリズムが雨音とともに心地よく耳に入ってくる。そして犬が女の子だったということを知ったことで、先程の、犬と飼い主が似ている、と感じた気持ちに確証が生まれる。一緒に過ごすうちに似てくるのだろうか、それとも似てるから惹かれるものがあったのか。恐らくどちらも大事な要素で、ただ、とりわけ前者の方が強く影響してくるのだろう。

あめちゃんは相変わらずヘラヘラと舌をだしながら飼い主の傘から1ミリでも多くはみ出そうとリードを引っ張り続けている。そしてついにその方向が俺とは反対側に向く。犬の引っ張られる方に進むタイプなのか、諦めなのか、飼い主が「それでは」と言うように会釈をし、先程の道のりへ戻ろうとする。

中途半端な会話の途中で消化不良ではあったが、俺もさすがに会社に戻らないと行けないタイミングだ。

「それでは、また、」

また、なんて、今後絶対会わないだろ、言ったそばから脳内でセルフツッコミを入れる。そして、ギザ野郎だと思われたらどうしよう、というセルフネガティブキャンペーンも同時開催。実際には、会いましょう、という台詞は口に出してはいないが「それでは、また、」が何を意味するでしょうクイズをすれば小学生だって答えられる。

「雨の日に」

だがしかし、さも当然かのように彼女は答えを返してきた。そしてそれは、俺と彼女と、あめ、この三人(厳密には二人と一匹)でしか、この時間からしか、導き出せない解だった。

遠ざかる2人をある程度見送ってから、踵を返す。俺は雨の日にこの公園を通る度、今日のことを思い出して、そして忘れていくのだろう。特別な日にするのか日常のワンシーンとするのか、俺のさじ加減で自由に定義できるこの日を、本当は大切にとっておきたいと思いつつも、結局は日常として消化してしまうのが人間だと、俺の記憶と長年向き合ってきた俺だから分かる。だから、今日を思い出せなくなる前に、きっといつかまた出会えたらいいなとも思う。

ただ、もし思い出せなくなったとしても、雨の日がなんとなく今よりも心踊るような日になるような予感がする。

本格的に帰路に着いた途端、運良く晴れる、わけもなく、それがやはり嬉しくて訳もなく走り出す。

ほんの少しだけ、自由を手に入れたように感じた。

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