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つくる考3 粘土、ハンパないって

そのむかし、陶芸教室のアシスタントをした。

地域で開催される子供向けの教室。
蝉がジリジリと夏を謳歌する暑い季節だった。
タイミング的にも、夏休みの自由工作にうってつけで数名の小学生が参加していた。

陶芸教室と言っても、ろくろをくるくると回転させてうつわ形を作るようなものではない。
こちらであらかじめ型やスタンプを用意しておき、それを自由に使ってもらいながら粘土で好きなものを作ってもらう。
最後に数種類用意した釉薬の中から好きな色を選んでもらい、こちらで焼成して後日お渡しという段取りだ。

主催の先生とは、考えが一致していた。
「それらしいものを作ってもらおう」
ではなく、
粘土をこねくり回していくなかで
「楽しい」とか「俺って結構いけてるんじゃない?」とかとか思ってもらえたら儲けもんだ、
という考えだった。

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子供向けの陶芸教室、と聞いてどんな光景を思い浮かべるだろうか。
子供たちが真剣な目つきで粘土に向き合う姿?
公園の砂場で遊ぶように、楽しく泥遊びを楽しむ姿?

実は子供向けの陶芸教室は、誰もが瞬時に打ち解けて粘土と遊び出すかというと、そういうものではない。
「つくること」「表現すること」に慣れていないと、土を目の前にして固まってしまうのだ。
正直それは、大人であろうと子供であろうと変わらない。
生育環境、持って生まれた性格・・・
要因はさまざまあれど、正しいものを求める社会の姿勢は人々から好奇心や冒険心を奪い去る。
見慣れない大きな粘土の塊の前で俯いて、口を真一文字に結んで椅子とお尻がくっついてしまう子供たち。

お母さんに連れられてやってきた、小学校低学年くらいの男の子がいた。
見ず知らずの私に即座に心を開いてくれるはずもなく、
名前を聞いても年齢を聞いても全てお母さんが代弁してくれるありさまだった。
陶芸体験はお母さんたっての希望だったらしく、
「茶碗とか花瓶とか、なんか使えるもの作ってよ」とお母さんがリクエストしていた。
男の子を預けてお母さんがいなくなってしまうとほとんど目も合わせてくれず、話しかけてもぶっきらぼうな返事が返ってくるだけだった。

ここから他愛もない話をして彼らの心を解していく。
実際に粘土に触れてもらう、私たちも臆せずどんどん粘土を触っていく。
どんなものを作ってみたいか聞いてみる。
どんなものが好きか聞いてみる。
グニャグニャ、ボロボロ、ペタペタ。
粘土が見せる表情は多様だ。

学校の授業ではない、正解はない、決まりもない。
そんな青空陶芸教室で私たちができることは、
子供たちの好奇心を引き出すことだけだ。
「ここ、いいね!」
「こんなこと思いつかなかった、最高じゃん!」
「こんなことがしたいなら、こんな風にもできるね!」
「今日はもう、自分がめっちゃかっこいいって思うもの作ろうね!」
失敗なんて何一つない。
はるか昔から私たちとともにあった粘土の包容力って、本当に半端ないのだ。

その男の子も例外ではなかった。
はじめはぐるぐると手のひらの中で粘土の小さな塊を転がしたまま何もしなかったが、
徐々に形を作り出した。
楽しそうになってきた。
笑顔が溢れてくる。
学校のこと、家族のこと、いろいろ教えてくれる。
聞けば、晩ご飯に使う皿を作りたいのだという。
「こんなお皿でご飯を食べたい」
今晩の食事が楽しみになる、
生きためのポジティブな力が湧いてくる、
うつわの醍醐味だ。
だんだんエンジンが全開になり、次はどうするの?次はどうするの?とせっついてくる。

形作りの時間が過ぎ、仕上げの釉薬を選んでもらう段に差し掛かった。
ピンクや、黄色っぽい釉薬を選ぶ子が多い中で、
その男の子は織部の緑を選んだ。
ガラス瓶の緑をもっと濃くしっかりとさせたような発色の、歴史ある釉薬だ。
「おっ、この釉薬は戦国時代に侍が好きだった色なんだよ、さすがかっこいいじゃん」
漫画「へうげもの」を読んだ方はご存知かもしれない。
古田織部が愛した釉薬である。

男の子は得意げに、へへへと笑った。

形も完成し、釉薬も決まったころ、お母さんが男の子を迎えにきた。
母親を見るなり目を輝かせ、自分がどんなものを作ったか、何が面白かったかをお母さんに報告する男の子。
見ている私たちも目を細める光景だ。

男の子の話を聞いていたお母さんが唐突に言った。
「えっ、こんな変な色のお皿にするの!?」

思わず固まる、男の子と私。
言わずもがな、織部の緑のことである。

「もっと白とか、黒とか、使いやすい色の方がいいでしょ〜」

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私は心が、キュッとちぢこまるのを感じた。
背中がヒヤッとする感覚と、頭がカッとなる感覚、両方を感じた。

言えるのだ、見ていなければ。
彼がどんな気持ちで、どんなに自由にものを作ったかを知らなければ。

用のあるなし、あるいは表面的な美醜。
そんなことは些細なことでしかない。
白い器が欲しい、
黒い花瓶が欲しい、
ならば、わざわざ作らなくてもいいのだ。
このご時世、買ってしまえば話が早いのだ。

今日、
尊いのは、
彼が、
かっこいいものを作った、
自分の心に素直に、
感じて、
考えて、
感じて、
作った、

それだけだ。
心に翼の生えるこの時間は、
この時にしか手にできない。

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そんなことを考えて、私が何かを口にしようとしたとき、
先に口を開いたのは男の子だった。

「お母さんはいつもいつも、あれしてこれしてばっかり!
俺がいいんだからいいだろ!」

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おお!?

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正直、わたしは驚いた。
ついさっきまで、ぶっきらぼうに粘土を転がしてボロボロにしていた男の子が。
ものすごい、正論を言っている。
そう、キミがいいと思うこと、それが大事なんだ。
それが、唯一無二ってことだし、
それが、キミが生きてるってことだ。

粘土の包容力、
粘土の解き放ち力、
本当に半端ないって。

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結局お皿は、織部の緑で焼きあがった。
いい色だったように思う。
その後彼の手に渡ったお皿がどうなったか、
夕飯は美味しく食べられたのか、
彼がどんな男の子に成長したか、わたしは知らない。

実際人が生きていくって大変なことで、
時が経つにつれて男の子は複雑な感情を手に入れて、
”作る”なんてことはもう全く頭にもよぎらなくなっているかもしれない。
でも願わくば、
心に翼を手にしたあの暑い夏の日が、
こねる手を受けとめる粘土のやわらかさが、
ガラス瓶より深い透明な緑が、
彼の心に眠っていればいいなと思う。
いつか心が枯れて餓えてしまった時に、
ふと気づくと、
みちみちと希望が注がれているうつわのような存在になれば、
そんな素敵なことはないと思う。


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