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写真を撮ることは、仏像を彫ることに似ているのかもしれない。

あいも変わらず、毎日のように写真を撮っている。

SIGMAのfpに「45mm f2.8 DG DN」のセットは、本当に街角スナップに向いていると、つくづく思う。

フルサイズミラーレスの中では確かに圧倒的に小さいが、かと言ってコンデジに比べればしっかりとした重量感があるし、大きさもそこそこだ。ただ、その大きさと重さが、「撮ろう」という意識にさせるのにちょうどいい。軽すぎるのもまた、良くないのかもしれない。

最近はもっぱら、その辺をプラプラと逍遥して、fpで気の向くままに写真を撮るのが楽しくてしょうがない。fpなら、設定さえ間違わなければ、ちゃんと撮れているだろうという安心感がどこかにある。撮った写真をMacで開き、現像する時間もまた楽しい。

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その辺で出会うものなんて、ほとんどがとるに足らないようなものにも思えるが、写真を撮りたくなる、ということは、自分の中で何かに興味をそそられているはずなのだ。拙著「面白い!」のつくり方 の中で書いた「面白さのツボ」というのが、まさにそれだ。

本の中では、スマホの写真アルバムを開いて過去の写真を探してみれば、そこに自分の面白さのツボを発見することができる、という話も書いた。つまり、いま私がfpで撮っている写真も、自分の中の「面白さのツボ」の集積であるはずだ。写真は、撮る人の視点そのものなのだ。

写真というのは不思議なもので、同じカメラを持っていたとしても、人によって撮れるものが全然違う。個性なんてものは、意識せずとも滲み出てしまうものなのだ。

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また、拙著の中では「面白い表現をするためのステップ」として、5つの段階に分けて説明をしていた。

①余裕を持つ ②よそ見をする ③観察する ④法則化する ⑤表現する

この内、やはり①〜③までが、普段の心の持ちようとして大切なのだと思う。写真を撮ることも、まさにこれに当てはまる。パッと見てササッとシャッターボタンを押すだけでは、なかなかいいものは撮れない。

まずは余裕を持って、よそ見をしてみること。人とは少し違った視点を持つことが大事だ。そして、なにか面白いなと思うものを見つけたら、よく観察してみること。

「なんか面白いな」「これをどうやって写真に収めようかな」「もう少し、こういうアイデアを入れてみようかな」

そんな事を考えながら、被写体と対峙してみる。そう長い時間ではないものの、この時間は、意外と大切なのではないかと思っている。

そう考えると、写真を撮るという行為は、即興性の高いものというよりは、どこか仏像を彫る行為にすら似ているような気がする。素材とじっくり対峙し、そもそも木の中に在る像を彫り出していくような…いや、仏像を彫ったことはないのだけれども。

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そして、この経験をたくさん積んでいくことで、「こういうときはこう撮るのが良い」「あのときたしかこう撮ったな」ということが、自分の中で法則化されてくるはずだ。その経験を複合的に活かすことで、また新しい表現も生まれるというものだ。

たいそう偉そうなことを言っているようだが、自分もまだまだその経験を積んでいる段階、つまり修行中の身だ。

ただ、いつも同じようなものを同じように撮っているだけでも面白くない。誰かが撮っているようなものを同じように撮ってもまた、面白くない。

自分が面白いと思うものに耳を傾け、それをどう表現につなげるのか、まずはその行為自体を楽しむことが、大切なように思う。

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さ、2冊目も頑張って書かなければ…。


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