本を書いています。
Vol.19 「本は人なり」という話。
デザインをやっていると、「作風」について考えることがある。
デザインなんてものはクライアントから頼まれて作るものであって、作風なんて出すもんじゃないと思いながらも、一方でそんなものは意識せずとも滲み出てしまうものなのだということは、何となく分かっている。
若い頃は「自分の作風」なんてことを意識したりしたものだが、そんなものを意識すること自体が、あまり意味のないことなのかもしれない。
最近、本を書くようになって、本をたくさん読むようになった。たくさん読むようになって、デザインと同じように、本にもやはり作風が自然と滲み出るものなのだということを改めて痛感している。
いや、本というものに至っては、作風なんていうレベルではなく、「作者そのもの」が滲み出ていると言ってもいいのかもしれない。デザインから伝わってくるそれとは、圧倒的に作者本人の情報量が異なるからだ。「文は人なり」という言葉があるが、「本は人なり」なんだな、と思う。
最近特にそう思うようになったのは、ここのところ立て続けに「いい本」に出会ったからだ。特にこの2冊。
まったく異なる2冊の本なのだが、どちらも言葉が人格を持っているような「強さ」がある。とても響く。だから、どちらの本も多くの人々の心を掴み、たくさん読まれている。たくさん読まれているということは、それだけ作者自身の人柄が、たくさんの人から愛されているということだ。
エラそうに書評めいたことを書くような立場にはないのだが、田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」に関しては、ちょっとだけ感想をTwitter上で書かせていただいた。
幡野広志さんも田中泰延さんも、直接お会いしたことはないのだが、ネット上の文章なども含めて勝手に注目させてもらっているので、何だか自分の中にすでに人格ができあがってしまっている。自分だけではなく、多くの人がそう感じているのではないだろうか。まさに「文は人なり」だ。
そして、もう1冊。ちょうど今、21周年で連載されている糸井重里さんと矢沢永吉さんの対談「スティル、現役。」があまりに面白くて、いま慌てて「成りあがり」を読んでいる。
世代的に矢沢永吉(敬意を込めて敬称略)という人をよく知らなかったのだが、この本の中には、生きた矢沢永吉がいる。今さら読んでいるところを見られたら恥ずかしいなんて思って、Kindleで買ってしまったことを後悔している。Kindleじゃあ本棚に飾れない。
この本は、本当にすごい。矢沢永吉そのものなのだと思う。自分の拙い言葉では表現しきれないので、まだ読んでいない人はぜひ読んでみて欲しい。
今回、このnoteの文体がいつもと違って「ですます調」でないのも、明らかに「成りあがり」の影響だ。「成りあがり」については、「ですます調」では書けない気がした。「成りあがり」は「である調」ですらないのだが。
やはり「本は人なり」なのだ。いい本は特に。
いい本はいい人にしか書けないし、カッコいい本を書きたかったら、カッコよくなるしかない。つまらない人が書く本は、当然つまらない。
そう思うにつけ、自分が書いた本もまた、きっと自分そのものに他ならないのだろうと思う。初めて書いたのだから作風も何もないのは当然だが、意識せずとも自分というものがたっぷりと滲み出てしまっているのだろう。
いよいよ来週発売になる。なんと今日中には著者献本として見本が手元に届くらしい。本の形になった状態を見るのは初めてだ。齢40にして初めて、自分自身とご対面することになるわけだ。
本を書いてみたかったから、書いた。下手なりに懸命に。それは田中泰延さんがおっしゃるように、自分が読みたいことを書いたということなのかもしれない。そして今、一番読みたいと思っている読者は、自分だ。ワクワクしかない。
Photo by Priscilla Du Preez on Unsplash
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?