イシュマエル・ノヴォーク

架空の書物と短編小説

イシュマエル・ノヴォーク

架空の書物と短編小説

最近の記事

エレゲイア・サイクル ~さよなら、ストーリーテラー(フレッド・マイロウに捧ぐ)

 フレッドがベッドの上で仰向けになりながら指を組む自身を見たところで驚くことはない。なぜなら、半年に及ぶ闘病生活が終わったことの安堵が驚きに勝っていたから。フレッドは自身の顔を見る。皺が寄った額、頬も痩せこけている。高い鼻は一層高く見えるが黒ずんでおり、おおよそ健康的には見えなかった。彼は部屋を見渡す。成人し、中年太りがはじまっている四人の子供たちは父親の亡骸を前にして涙を流しながら「信じられない」と繰り返している。フレッドは辛気臭く感じた。病院で病名を告げられ、治療するため

    • エレゲイア・サイクル ~トレーラー・パークの幽霊

       ジョナサン・ラスキン牧師が荒削りの石門を出て、共同墓地に向かってから一〇〇年経ったが、ラスキン牧師が存命中から牧師館は眠たげにしていた。馬車道で牛馬が拾い食いし、草に腰を下ろした牧童が弁当をひろげて昼餉をとったにせよ、非難する者はいなかった。牧師館からは何人もの聖職者が生まれ育った。最後の所有者であるラスキン牧師は英国風の由緒ある建物で二〇〇〇ほどの説教文を書いた。彼が晩年に書いた説教文は彼自身によってマサチューセッツ州のラジオで読み上げられた。これはいささか斜に構えた、玄

      • エレゲイア・サイクル ~ライナスへの哀悼

         ハンドルを握るライナスは散髪の仕上げに振りかけられたシェービングトニックに満足している。スペアミント、ライム、バニラ、ラベンダー。それらに火を放ち、一瞬で焼失させたような匂いは彼を安心させ、感傷的にさせる。シャーマン・ウェイの街灯はモダニズム彫刻のように見えた。ひょろ長く、首を垂れた街灯から放出されるオレンジ色をした光。光と呼ぶには弱々しく、記憶からとり出されたまぼろしのようなもの。  ライナスは縮れた前髪に触れ、前方を眺めた。中央分離帯に延々と植えられたナツメヤシは街灯よ

        • エレゲイア・サイクル ~アレン・ギンズバーグとウィリアム・バロウズへのエレジー

           古書店の最奥でニコラス・スモーレットはページをめくる。その動きは時間が巻き戻ることは決してないと念を押しているように見える。彼が読んでいるのはポール・ヴァレリーの『テスト氏』だ。彼はこの短い、ヴァレリー自身は嫌っていた形式で表現されたものを何度も読んでいる。世界にはおびただしい量の書物があり、それは増え続けている。すべての書物は精霊が先んじて用意したものであり、物質として残すことだけが人間の役目であると考えるスモーレットの精神は仕事も趣味も株式の浮き沈みを眺めることであるテ

        エレゲイア・サイクル ~さよなら、ストーリーテラー(フレッド・マイロウに捧ぐ)

          エレゲイア・サイクル ~記憶の悪戯

           私たちは物語がどこからやって来るのかを知らない。脳にあるどこかの箇所が書物やテレビ、ラジオ、映画、友人や知人と交わした会話といった記憶の断片をとり出しているのだろうが、その断片は虫食っている。そして、記憶は不完全なものであるが故に跳躍や飛躍を許す。  私たちは物語がどこに向かうかを知らない。優れた書物を残した詩人や作家であっても、このことに答えることはできない。私たちが記憶と呼ぶ感情の副産物はあっという間に変わってしまう。一七世紀で最も博学とされる英国人ベン・オライリー卿

          エレゲイア・サイクル ~記憶の悪戯

          エレゲイア・サイクル ~放棄

           積み上げた石、ジェンガ、トランプ……なんでもいい。とにかく、自分で積んだものを崩すことは気分がいい。ただし、他人が積んだ石を崩すことは駄目だ。これは倫理的な問題というよりも、ぼく自身の考え。ヒュームは理性によって道徳的な判断をすることは不可能だと言っている。彼は道徳的な判断が感情から派生するもので、道徳性は個人の利益から発生したものと考えている。 〈何が正しく、何が間違っているのか?〉 〈人はどう生きるべきか?〉  これらの答えの根っこが個人の利益に従っているのならば、

          エレゲイア・サイクル ~放棄

          エレゲイア・サイクル ~放浪詩人

           トラックの荷台を覆う深緑色のシートが揺れる様子は、始皇帝が死を避けるために用意させた三六五の部屋のうちの一つで開け放たれた窓から吹く夜風によって揺れる天幕のように見える。彼が横たわっている寝台は各州に住む所有者たちが用意した。ダンボールに印刷された皮肉屋の口元めいたマークが腕や背中、尻、脚の形に潰れていたとしても所有者は低評価を下す以外のことはできない。所有者は彼を所有してはいないのだから。彼は欠伸をし、背中を弓なりに曲げて大きく息を吐く。アルコールと歯肉炎、マリファナの臭

          エレゲイア・サイクル ~放浪詩人

          エレゲイア・サイクル ~序文

           ピアニストのブラッド・メルドーは『エレゲイア・サイクル』を一九九九年のロサンゼルスで録音した。その時までに彼は複数の録音を経験していたが、たった一人、ピアノ一台で録音したことはなかった。アルバムは九つの楽曲によって構成されている。『放浪詩人』、『放棄』、『記憶の悪戯』、『ウィリアム・バロウズとアレン・ギンズバーグへのエレジー』、『ライナスへの哀悼』、『トレーラー・パークの幽霊』、『さよなら、ストーリーテラー』、『回顧』、『詩人の帰還』  今現在の彼ならば無用な力みと呼ぶか

          エレゲイア・サイクル ~序文

          痛み止め~サタデー・ナイト・サタナイトショー

           テレビを見ながらレイは指で脇腹をなぞった。爪に引っ掛かる凹凸は切り立った崖のように感じられる。腹腔鏡手術によって切除された虫垂は最早ないにも関わらず、臓腑の中で領有権を主張している。しばらくすると、虫垂の主張は痛みという声に変わり、死骸を分解するために地中から派遣された地虫のように這い回りはじめた。泣き喚きながら床に転がり、ありとあらゆる呪詛を吐くことをしないのは一四歳のレイが強靭な精神を備えているからではなく、両親が留守をしている家でさらに惨めな気持ちになりたくないから。

          痛み止め~サタデー・ナイト・サタナイトショー

          サチュレーション

           私がチャプレンという仕事を選択したのは、ハイスクールを卒業するために必要な社会奉仕活動からでした。私が行ったのは老人ホームでした。老い衰え、昼も夜も区別がつかない、一時間前に食事をしたことも忘れてしまう老人たちを前にした時、私は衝撃を受けました。私は彼らに同情しませんでした。若い頃の彼らが不品行なことをしたためにこうなったわけではないのですから。誰しも、私もあなたも同じようになる。不思議なことは何もない。  彼らは私を昔ながらの友人のように扱ってくれました。それはまるで、

          カウチ・ソファより永遠に

           元旦、マーティン・ルーサーキング牧師記念日、大統領の日、戦没者祈念日、奴隷解放記念日、独立記念日、勤労感謝の日、コロンブス記念日、退役軍人の日、感謝祭、クリスマス。すべての祝日が顕現してクリフトン・シアーズの前で膝をついたとしても、彼がこれほど浮かれることはない。静謐な図書館で本の管理と貸出業務を行うシアーズの毎日はすべての人々同様、繰り返されているにせよ、今の彼は最愛の存在であるベアトリーチェに導かれるダンテのようである。熱に浮かれたシアーズは部屋を飾りつけることに心血を

          カウチ・ソファより永遠に

          ジェシカの白

           ジェシカは床と壁をビニールで覆った部屋を歩く。色彩が飛び散った空間には音階が鳴り響いている。赤はAエオリアン、薄緑はGリディアン、白はCアイオニアン、紅藤はFドリアン。しかし、実際に部屋に響いているのは履き潰したブーツが床を踏む音のみ。部屋の真ん中には大きなテーブルがあるので、彼女は隅から隅へと規則正しく歩かなくてはならない。足を止めたジェシカはテーブルに置いた一二〇号サイズの合板に顔を近付ける。多層に接着されたオレゴン生まれの針葉樹からは薄っすらと化学薬品の臭いが漂ってい

          黒い羊

           ぼくの職場はデンバーで最も高いビル、リパブリックビルにあった。ビルは五六階建てで、多分、今でもデンバーで一番高い。ステップ気候に区分されるデンバーは一年のほとんどが晴れている。一般には年間三〇〇日晴れるとされるけれど、実際は二四五日ほど。残りは曇りか雨か雪。    うんざりして仕事を辞めたけれど、気候のことを気に病んだというわけじゃない。ただ、なんとなく。億劫になった。辞める時は規則通りデスクを綺麗にした。次に座る誰かが気持ちよく過ごせるぐらいに。書類にサインして、アパート

          巨人の足跡

           開いた窓の近くに立つヴァンは壁に掛かった絵画を見る。キャンバスには競泳水着を着た若い女の後ろ姿が描かれている。彼女は飛び込みをしようとしているように見えるが、背景はヴァンが立っている窓と同じものである。ヴァンは未詳の画家が残した、合わせ鏡の世界に魅了されている。ヴァンは爪が綺麗に切られた指で窓枠をなぞり、指先に付着した黒い滓を親指で落とす。それから、部屋に敷かれた絨毯を踏みしめるように歩き、電子ピアノの前にある四本足の椅子に腰を下ろした。ミカエル・グラス製のウッドベースを構

           ミイラのように毛布に包まっていたジャン・ビカードは目覚めるなり薄暗い天井を見つめる。天井に斜めに走った染みは角に交わり、床までのびている。芋虫のように身体を捩ってベッドから抜け出すと、生暖かい毛布の抜け殻が主人の体臭を吐き出す。歪んだ十字架の下で欠伸をしたビカードはゆっくり歩き、黒い滓に覆われた台所で湯を沸かす。ガスコンロに灯る青い炎、五徳の先端が赤く染まっている。缶に入った粉末コーヒーをカップに落としたビカードは湯を注ぎ、コーヒーを啜る。それから、ベッドの近くまで戻る。床

          ファン・マヌエル・スアレス『殺しの街』

           ファン・マヌエル・スアレスは私と同じようにボカ地区に住んでいる。彼は測量技師で、生活態度も酒癖を除けば良い。ファンはワインを空にして上機嫌になるとその足で背広を買い、ラ・プラタ川に飛び込んだ。川から上がってくる時には、背広は消えている。  ファンは旅行好きで、私の知り合いの中でアメリカ旅行を実行した数少ない一人だ。彼が旅行したのはニューヨーク州のブルックリン地区だった。『殺しの街』はブルックリン地区を歩いたファンの記録である。物語には登場人物と呼べるようなものは存在せず、会

          ファン・マヌエル・スアレス『殺しの街』