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痛み止め~サタデー・ナイト・サタナイトショー

 テレビを見ながらレイは指で脇腹をなぞった。爪に引っ掛かる凹凸は切り立った崖のように感じられる。腹腔鏡手術によって切除された虫垂は最早ないにも関わらず、臓腑の中で領有権を主張している。しばらくすると、虫垂の主張は痛みという声に変わり、死骸を分解するために地中から派遣された地虫のように這い回りはじめた。泣き喚きながら床に転がり、ありとあらゆる呪詛を吐くことをしないのは一四歳のレイが強靭な精神を備えているからではなく、両親が留守をしている家でさらに惨めな気持ちになりたくないから。彼女は痛みに耐えながら目だけを動かし、壁に掛けられた時計とテレビ画面の右上に映る時刻を見たものの、それは五分ほどずれている。レイは顔を顰めた。これは不正確な時に抗議したいのではなく、処方された痛み止めを服用するために正確な時間を知りたいから。それから、苛立ちは怒りに変わり、怒りは痛みとして彼女に返却された。

 レイは歯を食いしばりながらテレビを見た。テレビ画面の中では宇宙服を着たブルドッグと毛むくじゃらでギョロ目のロボットが糸で操られながら歩いている。赤茶色をした岩石の書割の前で交わすお喋りは文学的引用と卑猥な冗談が散りばめられている。毛むくじゃらロボットは片目を瞑り
「いいかい? おれたちはこの乱反射した星屑で金の山をいただいちまうってわけだ。するとどうなる?」
 宇宙服ブルドッグは湿った鼻先を舐め
「ドゥービー、お前は誇大妄想狂だ。大体、そんな量の金があれば、銀河銀行の地下室に保管されている延べ棒の価値はガタ落ちになる」
「ホットソース、おれたちが銀河一の金持ちになるんだ。毎日、油はさし放題、プラスチックなんかじゃない、本物の骨を噛み放題。さぁ、行こうぜ!」
 奇妙な二人組が糸に従って腕を振ると書割が横移動を開始する。挿入曲はドゥービー・ブラザーズの『ロング・トレイル・ランニン』である。これはレッドツェッペリンの『トランプルド・アンダーフット』に似てはいるが関係はない。しかし、人間一人に与えられる脳には一四〇億の神経細胞があり、量子もつれが発生している可能性が示唆される現代において関係性が皆無であると断じることは早計である。小さな紙袋に手を伸ばしたレイは映画館にやって来た観客がポップコーンを放り込むように痛み止めを口に放り、水を飲まずに噛み砕いた。それから、傷痕に手をやり、一刻も早く痛みが去ることを願いながらテレビを消した。

 痛みが静まりはじめると眠気は無遠慮にやって来た。彼女は自室に向かい、ベッドに身を投げた。ほとんど眠りながら操作する携帯電話の液晶画面は淡い光を放っており、友人たちのやり取りが流れ落ちていく。彼女の担当医は〈痛みは数日後には消え失せるはずで、露出したとしても傷痕は目立たない程度にはなるだろう〉と言ったが、この言葉から希望を見出すことはできなかった。携帯電話の画面端にあるラジオ・アプリケーションに彼女の指が触れたことは偶然であり、この誤動作から小難しい解釈を引きずり出すことはできない。

〈サタデー・ナイト・サタナイトショー〉

 突然、部屋に響く大音量のタイトルコールは孤独を打ち壊す。城門を破る丸太、押し寄せるのは血に飢えた兵士たちではない。それはワウ・ギターとパーカッション、スピード感のある管楽器セクション、丸みを帯びたエレキトリック・ピアノ、肌にぴったり張り付く感嘆符。
 レイは携帯電話を落とし、重力に礼儀正しい携帯電話が落下する。偶然と衝撃が重なり、携帯電話は床とベッドの隙間に潜り込んだ。まるで、映画『レオン』における主人公のマチルダのように。レイは舌打ちし、両親の前で口に出すことのない冒涜的な一節を詠う。眠気が吹き飛んだ彼女は床に腹這いになりながら手を伸ばすものの、灰色の埃にまみれた暗黒の中で青白い光を放つ携帯電話には手が届かない。そして、携帯電話から陽気なカリフォルニア訛りの声が響く。
「よぉ、みんな。元気にしていたかい? はじめに流したのは七四年にマーキュリー・レコードからリリースされたオハイオ・プレイヤーズの『スキン・タイト』……みんなはオハイオ・プレイヤーズを覚えているかい? コーネリアス・ジョンソンを。リロイ・シュガーフット・ボナーを。ウェス・ボートマンを。もし、覚えていてくれたのなら、彼らも喜ぶよ。とはいえ、彼らの名前を思い出したり、今夜覚えたりすることはそれほど重要なことじゃない。大事なことは、彼らの音楽が今もどこかで聴かれていることさ。昔のファンク・バンドなんて聴かないだって? まぁ、そうかもな。契約しているストリーミング・サービスの気分次第かも知れないし、うっかり手が滑っただけかも知れない。どちらにせよ、彼らをオハイオ・ファンクの代表として聴くことは少ない。でも、よく聴いてくれ。おれの話じゃない。音楽をさ。オハイオ・プレイヤーズを知らない、聴いたことがなくても、ジェイ・Zやデ・ラ・ソウル、クリス・クロス、N・W・Aはどこかで聴いただろう。彼らはオハイオ・プレイヤーズをサンプリングしている。理由は一つ。いい音楽だからさ。グルーヴとか、斬新なリフとか、そういうことは忘れよう。いい音楽かどうかは頭で決めることじゃない。ハートが決めることさ。おれが借りているアパートの大家、フォックスさん曰く〈長く生きると知恵がつく〉そうだが、ハートに知恵をつけるのは良くないことだぜ。たしかに、知恵は大事だ。家賃を毎月支払うためにも車の改造はほどほどにしたほうがいいし、親指サイズのミニラのソフトビニール人形を色違いで二〇個も集めるなんてどうかしている。この前もフォックスさんに言われたよ。〈次に支払いをすっぽ抜かしたら、そのアフロヘアーに穴を空けてやる〉ってね。多分、本気さ。フォックスさんはいつも本気なんだ。でも、いい人だよ。それを証拠に、フォックスさんはこれまで一度もおれを訴えていない。それに、おれは週に一度はフォックスさんとメシを食っている。フォックスさんが作るアップルパイは最高だよ。去年のフォックスさんの誕生日の話をしよう。おれはサプライズパーティを計画した。沢山の色紙を鎖みたいに折って、三角帽子を買った。それから、部屋にベースアンプとギターアンプとキーボードアンプとドラム、楽器を揃えて、おれがプロデュースしているバンド、〈黒いブラック・サバス〉を呼んだ。当然、彼らには正装してもらった。一風変わったものにしたかったから、装い新たにアメリカンフットボールのプロテクターを改造したやつにした。電飾をつけたプロテクターと言えばわかりやすいだろ? おれはいつも通り。黄色いブルース・リーのタイツだ。これが正装だからね。何着も持っているんだ。もちろん、特注品さ。想像してほしい。〈黒いブラック・サバス〉が演奏するモータウンサウンドの『ハッピーバースデーの歌』を。ちなみに『ハッピーバースデーの歌』は世界で一番歌われている歌としてギネスブックに載っているし、音楽著作権で一番稼いだ曲でもある。ビートルズよりも、マイケル・ジャクソンよりも稼いでいる。とはいえ『ハッピーバースデーの歌』は替え歌だ。ヒル姉妹の『すべてにおはよう』が元の曲。ヒル姉妹がそのことについて言いたいことは一つや二つじゃないだろう。でも、彼女たちは大事なものを残してくれた。それはとても大きなものさ。三六五日、どこかの国、どこかの街、砂漠やジャングルでも歌われているかも知れない。〈誕生日おめでとう〉……これだけのメッセージを伝えるためにね。みんながスペースシャトルに乗って、スキン・タイトなスーツを着る時代になっても、ホイップクリームまみれのケーキと『ハッピーバースデーの歌』は消えないんだ。ひょっとするとケーキはないかも知れない。かわりにあるのはトーテムポールみたいになった昆虫ケーキかも。それはさておき、みんなの誕生日が蝋燭を吹き消すみたいに消える日まで『ハッピーバースデーの歌』は歌われ続けるんだ。OKに同意。ちょっとばかり感傷的なことを言った。今、ブースの外でコンソールをいじっているイースは涙ながらにドーナッツを齧っているよ。イースの動作から読み解けるもの? もちろん〈さっさと次の曲に行け〉さ。だよな、イース? 今、イースが首を縦に振った。イースの首は脂肪が締め上げているけど、おれにはわかるんだ。友だちだからね。次の曲はパーラメントで『マザーシップ・コネクション〈スターチャイルド〉』だ。気楽にいこう。今日が最悪だとしても、誰かの誕生日なんだから」

 床とベッドの隙間に手を突っ込むことを諦めたレイはベッドに寝転がった。バッテリーが尽きて騒ぎが終わることを期待して。あるいは、痛み止めが効いた肉体を眠りが支配することを期待して。しかしながら、無味乾燥な白い錠剤よりも彼女のために贈られたささやかな痛み止めが勝ったことを期待したい。

 

 

 

 

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