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ジェシカの白

 ジェシカは床と壁をビニールで覆った部屋を歩く。色彩が飛び散った空間には音階が鳴り響いている。赤はAエオリアン、薄緑はGリディアン、白はCアイオニアン、紅藤はFドリアン。しかし、実際に部屋に響いているのは履き潰したブーツが床を踏む音のみ。部屋の真ん中には大きなテーブルがあるので、彼女は隅から隅へと規則正しく歩かなくてはならない。足を止めたジェシカはテーブルに置いた一二〇号サイズの合板に顔を近付ける。多層に接着されたオレゴン生まれの針葉樹からは薄っすらと化学薬品の臭いが漂っている。彼女は笑みを浮かべ、あたりに漂う音色を手繰り寄せる。そして、引き出しからキャンベルスープの缶をとり出す。缶の上部は黒く染まっており、小さな穴が幾つも穿たれている。缶を逆さにすると墨汁が滴り落ちた。光沢のある黒は子宮内で進化の道筋を辿る胎児のように様々な特徴を備えている。水に溶けたキプロスと黄土色がストローで吹き付けられ、重なった小さな波紋は山脈や渓谷を想起させるが、形を拒んだ彼女は掌を左右に擦り、混沌が広がった。

 壁に寄り掛かったジェシカは顎に手をやり、暗色が彼女の顔にしるしをつける。彼女は気まぐれにスカルラッティのピアノソナタの旋律を口ずさむものの、音程は外れている。しかし、そのことを気にすることはない。なぜなら、あらゆる芸術には正解がないのだから。ジェシカは言葉を返すことのない合板に向かって話し掛ける。答えるものは微かに窓ガラスを揺らす風の音だけだが、脳裏に二、三の生活についての些末な考えが過った。税金と電話料金の支払い期限について。あるいは冷蔵庫の野菜室で腐敗が進んだアーティチョーク。彼女は喉を鳴らし、シルヴィア・プラスの詩の一節を口に出す。しかし、曖昧な記憶からとり出された一節は彼女が詩作したと言ってもいいほど変化している。

 チューブを絞った彼女はペインティングナイフで黒と朱を交互に撫でつけた。闇の中に姿を隠した皮膚を剥がれた動物は物言いたげに合板に鎮座している。それから、指先にパーマネントイエローをつけて指で合板を弾く。流麗なロマン派のピアニストのような指使いだが、彼女がピアノを習ったことは一度もない。鳥や蝶の群れのように見える点が打たれると、彼女は腕で額を拭った。そして、階下から響く奇妙な音を聞き、笑みを浮かべる。

 液状の白を放ち、色彩を擦る。爪や皮膚の一部が合板に刻み込まれているが、出血や痛みは伴わない。彼女の行為は自身の分身を創造し、うんざりするような仕事を押し付けるためではない。また、神や、神を模倣するテクノロジーとも疎遠である。溶けた色彩が広がっていく。絵具から発せられる湿った土のような匂い、デューク・エリントンやオリヴィエ・メシアンが研究した〈移調の限られた旋法〉、Cコンビネーション・ディミニッシュ。

 合板を床に置くと、それまで領土を主張していた色彩が淡く溶け合っていく。彼女が一息ついているとポケットの奥でけたたましい音が鳴り響いので作業着で手を拭き、携帯電話を手にとる。
「休暇中」
─ わかっているよ。でも、重要な話なんだ。
「たとえば?」
─ 君が担当している俳優、リチャード・コベンフォードの件。
「それは先週、終わった」
─ 離婚調停はね。君の仕事は完璧だった。
「それで?」
─ コベンフォードが一九歳の女の子を妊娠させた。
「最低」
─ まぁね。ぼくもひどいと思う。
「本題は?」
─ 新しい仕事がやってきた。彼はクズ野郎だけど、オスカー像を持っていて、それよりもお金を持っている。
 彼女は目を瞑り、大きく息を吐く。
「チームを集めて。人選はあなたが。ミーティングは六時間後。クライアントを家から一歩も出さないようにして」
─ 六時間後? 今、どこにいるんだい?
 ジェシカは「どこだっていいでしょう?」と言い、電話を切った。彼女はブーツを鳴らしながら歩き、隣にある寝室に向かう。数日の間、寝起きが繰り返されたベッドは一度も整えられていない。彼女は作業着を脱いでクローゼットを開ける。ハンガーにかけられたベージュのジャケット、膝丈が少しだけ出るペンシルスカート、飾り気のない白いインナー。手際よく着替えを済ませたジェシカは複数チェーンのネックレスを首から垂らし、赤毛を後ろに縛った。それから、手鏡で顔を確認し、暗色のしるしを見て笑みを浮かべる。ハイヒールが床を打つ音が響いた後、部屋の灯りが消えた。合板は創造主が不在の間にも色彩を滴り落とし続ける。完成に近づくために。

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