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 ミイラのように毛布に包まっていたジャン・ビカードは目覚めるなり薄暗い天井を見つめる。天井に斜めに走った染みは角に交わり、床までのびている。芋虫のように身体を捩ってベッドから抜け出すと、生暖かい毛布の抜け殻が主人の体臭を吐き出す。歪んだ十字架の下で欠伸をしたビカードはゆっくり歩き、黒い滓に覆われた台所で湯を沸かす。ガスコンロに灯る青い炎、五徳の先端が赤く染まっている。缶に入った粉末コーヒーをカップに落としたビカードは湯を注ぎ、コーヒーを啜る。それから、ベッドの近くまで戻る。床に落ちたジーンズとベルトは分かつことのできない恋人たちのように見える。ジーンズを履き、チェック柄のシャツに袖を通したビカードは二つのアルファベットが重なるように刺繍された帽子をかぶって外に出た。

 歩いている間は何も考えなかった。日々、少しずつ色を変え、生育地を奪い合う非情な植物のやり取りが彼に感動を与えることはない。たとえ、それが神によって決定されたことであったとしても、その御業に首を垂れるだけの信仰心や気力はとうに失われている。

 裏口から工場に入ったビカードは自らに与えられた場所に立った。他の場所に立つことは許されない。ロボットによって組まれた自動車がベルトコンベアーに載せられてやってくると、画面に目をやり、部品に欠けがないか、ネジが緩んでいないかを確認する。ビカードはため息をつく。どんなに望んだところで、目の前にある自動車を購入するローン審査が通過することはないのに。自動車は次から次へとやってきては消えた。すべては新しい持ち主のために。何台も高級車が並ぶガレージに花を添えるために。

 工場内にチャイムが鳴り響くとベルトコンベアーが停止した。ビカードはそれぞれの持ち場で作業をしていた労働者たちの列に加わり、廊下を進む。気力に乏しい行進の先には食堂がある。白いテーブルには造形美など見当たらない。ただ、支えるという目的のみを与えられた物体を見たビカードは笑みを浮かべる。盆を持ったまま列に並んでいると、プラステックの皿に盛られたマッシュポテトと豚肉のソテー、コールスローが置かれた。ビカードはテーブルに向かって歩く。会話は少なく、聞こえるものは愚痴とため息ばかり。椅子に腰を下ろしたビカードがフォークとナイフを握ると、コーヒーが注がれた赤いカップが隣に置かれた。コーヒーを置いた男は短い髪を掻き「飲めよ」と言った。ビカードは粘土のようなマッシュポテトをフォークに載せ
「ありがとう、モシェ。食事は?」と言うと、モシェが息を吐き、アルコールの臭いが漂う。
「また、飲みすぎたのか?」
「頭が痛くて割れそうだ」
 椅子に腰を下ろしたモシェがコーヒーを啜る。
「飲み過ぎた次の日は、いつも思う。今度からは酒を減らそうってな」
「減らしたことは?」
「ない。あるわけがない。お前は?」
「おれはほとんど酒を飲まないよ。金がなくてね」
「おれだってないさ。だけど、不思議とひり出てくるんだ。糞みたいに」「食事中だぞ?」
「悪い、それじゃあ、なんだ……その……まぁ、どういうわけだか金が見つかるんだ」
 コールスローを咀嚼しながらビカードがうなずく。後方から響き渡る笑い声を聞いたモシェは舌打ちし「うるさい奴がきた。うるさい奴っていうのは、笑い声までうるさいんだ」と言った。ビカードの隣に盆が置かれ、メデゥーサのように乱れた髪の男が腰を下ろす。
「よぅ、ムッシュ、それにモシェ」
 目を細めたモシェは気のない様子で手を振り「よぅ、うるせぇグリスピ」と言い、グリスピが黄ばんだ歯列を見せた。グリスピの前歯の一本は欠けている。そして、その欠落したものがケイレブ・グリスピという男の本質をさらけ出しているように感じられる。
「ムッシュ、調子はどうだい?」
「いつも通りだよ」
「へぇ、そりゃ良かった。で、モシェは? 言わなくてもわかるぜ。二日酔いなんだろ?」
「うるせぇグリスピのせいで頭痛がひどくなった」
「ひでぇ言い方だ。一つ言わせてもらうが、二日酔いなんてものになるってことは、お前ぇさんに酒は合わないってことさ」
「説教か?」
「お前ぇに説教するほど不信心じゃねぇよ」
 ビカードは豚肉のソテーを王侯貴族のように優雅に切って口に運ぶ。モシェがため息をつくと、食堂にタートルネックにジーンズ姿の痩せた男がやって来た。痩せた男は神経質そうに縁なし眼鏡に触れる。モシェの「書記長だ」という言葉には軽蔑が含まれている。痩せた男は食堂にいる人々に向かってシリコンバレーのやくざ者にして、宇宙事業から自動車産業にまで手を伸ばす、彼らの頂点、CEОのアスプレニウス・レヴィナンス・ピットの悪行を羅列し、糾弾する。舌鋒鋭く、一度も淀むことのない言葉は入念に練られたものであるが、やや早口で繰り出されるために即興であるかのように感じられる。人々が団結や権利といった言葉を口に出しはじめると、痩せた男は満足げにうなずく。グリスピが言う。
「知っているかい?」
「さぁな」
「何をだい?」
 ため息をついたモシェが「折角、黙らせようとしたっていうのにな」と言うと、グリスピは背を丸める。
「あの書記長、とんでもねぇ嘘つき野郎だぜ。あんな風に言っているけど、おれたちのことなんか踏み台としか考えちゃいねぇ。あいつはアパートを三つだけじゃない、駐車場とガススタンドまで持っている経営者様なのさ」
 豚肉のソテーを嚥下したビカードはコーヒーを啜る。
「そんな風には見えないけどな」
「金を持っているように見えたらマズイだろ? フリをしているのさ」
 モシェが短い髪を掻く。
「議員の席を狙うには役不足だと思うがね」
「すぐにはな。でも、書記長様は目ざといぜ。嗅覚が鋭いんだ。機会を見つければ議員の椅子だって、あっという間に自分のものにしちまうぞ。まぁ、アーミッシュみてぇに電化製品を家に置かないモシェにはわからねぇだろうが」
「電話がある」
「それだけだろ? 携帯電話も電子レンジもねぇ」
「必要ないんだ」
 グリスピが笑みを浮かべる。
「右も左も嘘つきしかいねぇ。大嘘つきが上に行く。そうなっているんだ」 
 飲み終えたカップを盆に置いたビカードが椅子から立ち上がる。モシェが「もう行くのか?」と尋ねると、ビカードは
「遅れるのはマズイ」と答えて歩き出す。グリスピは含蓄がありそうな空疎な言葉を繰り出すものの、その言葉はビカードの耳に届かない。日が暮れ、日が上り、肉体はもとより魂までもが消え失せたとしても。見ることのできない鋸歯状の罠は脚を砕き、留まりつづけることを命じる。

 







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