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「疲れる」の整理整頓

先日、八ヶ岳連峰にて約8時間の日帰り登山をした帰りに「疲れた」という言葉が口を衝いて出た。その時、何やら強烈な違和感を抱いた。確かに疲れたが、本当に疲れてるのか?と腑に落ちない思いだったのだ。

日常的に使われているこの「疲れる」という表現が指し示す守備範囲って、実はあまりにも広いのでは?いう気付きがこのエントリーを書くきっかけとなった。

「疲れる」の抽象性

私は、お昼ごはん何食べた?と訊かれて「パスタ」と答えるのは不親切だと感じる面倒な人間だ。なぜならパスタは麺食品の総称だからである。どこに住んでるの?と訊かれて「地球」と答えるのと同じことだ。
ラッパーのZeebraも楽曲の中でこうラップしている。

とりあえずシャンパンで乾杯だ
食べたいもんはゆっくり考えな
俺的にはパスタはフェトチーネ
リングイーネ ニョッキ なんでもいーぜ

Zeebra - プラチナム・デート featuring DOUBLE

「なんでもいーぜ」と言いつつスパゲッティを外しているところにジブ味を感じるが、認識の解像度を高める上で、表現に具体性を持たせることは非常に重要なことだと感じる。

「疲れる」という表現は抽象性が高い状態にあり、自分はどう疲れているのか?ということについて適切な表現を用いて具体性を持たせる必要があるのではないだろうか。

例えば、「くたびれる」

冒頭の件に戻るが、下山した後に私が発するべき言葉は「くたびれた」が正解だったのだと思う。

「くたびれる」という表現には、肉体的な疲労や充足感を伴う疲労の意味合いが込められているように感じる。
重い荷物を持ってようやく帰宅した際、山盛りの洗い物を片付け終えた際、庭仕事を終えた時に「くたびれた」なんて思えば、自分を労いたくもなる。

例えばパートナーがいて「は〜くたびれた〜」と帰ってきた日には、美味しい緑茶でも淹れてあげたくなるし、入浴剤を入れてお風呂を沸かしてあげたくなる。
これがもし「疲れた」と帰ってきた日には、相手の機嫌を伺ったり、心配するような態度を取ってしまったり、もしくは腫れ物の如く触らないようにするかもしれない。

日本語表現の豊かさ

調べてみたところ「くたびれる」以外にも様々な類似表現が用意されていることがわかる。

https://thesaurus.weblio.jp/content/%E7%96%B2%E3%82%8C%E3%82%8B

「燃え尽きる」なんて、ホセ・メンドーサとの試合後の矢吹ジョーしか使わないんじゃないかと思うが、素敵な表現ね。

日本語はその単語数の多さに加え屈指の高文脈言語であることから、非常に豊かで繊細な表現を可能にしている。
「川上から桃が流れてくる」という千載一遇の場面にすら「どんぶらこ」という専用の擬音語が用意されている程、表情豊かな言語だと感心する。

ちなみに米国政府職員に対する語学トレーニングに於いては、日本語は取得難易度マックスに指定されている。

我々はラッキーなことに、英語圏の人間が88週間もかけないと習得できない高い言語のプロフェッショナルである。であればせっかくだし、適材適所で相応の表現を活用すべき責務のようなものを感じる。

「疲れる」の棚卸し

「疲れる」には、ネガティブな状況による疲労も多く含まれている。
心身すり減らした疲労も、充足感を伴った疲労も、全て「疲れる」に集約してしまっては、なんだか自分が疲れてばっかりの人間のようにも思えてしまう。これは精神衛生上良いこととは言えない。

それを打開するためには「疲れる」の内訳を整理して、相応の言葉で表現することをオススメしておきたい。
先の「くたびれる」を始め、果てしなく疲れた時に関しては「疲労困憊」や「満身創痍」など、別の表現で特別感を出してみても良い。
そうすることで、実は口にしていた程に「疲れる」状態ではなかったことに気が付くかもしれない。家計簿で出費を細分化するように、実のところどの「疲れる」が多いのかを認識できれば、ストレスマネジメントにも繋がっていくはずである。

仕事で疲れた、人間関係に疲れた、子育てに疲れた、遊び疲れた。
確かに疲れることはたくさんあるけど、疲れるも様々。まずは適切な言葉に変えてみて、ブラックボックス化した「疲れる」の棚卸しをし、ハッピーマインドな日常を送れる一助になればこれ幸い。

余談だが、モンゴルは馬の年齢や状態によって呼称が異なるらしい。馬の呼称の具体性を上げることでハッピーマインドになり得るのかについては、僅かな疑問を感じざるを得ない。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1437374724

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