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ろう者とCODAが鍵になるミステリーは多文化共生社会への道筋を考えさせるー『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』

警察の事務職の仕事をやめ手話通訳士になった荒井尚人が自分の過去とも関係する事件の謎を追うことになるミステリー。主人公のアイデンティティのゆらぎがミステリーと絡み合い深みのある物語を生み出している。

ミステリー小説だが、主人公が手話通訳士(というあまり知られていない職業)なので、序盤に非常に丁寧に、しかし自然に「手話」と「ろう者」について説明がなされる。

言語としての手話と「ろう者」

ミステリーとしてどうこうはどうでも良くなるくらいこの部分が素晴らしい。ドラマで手話が話題になったりはしているが、耳が聞こえている人たち(聴者)は耳が聞こえない人たち(ろう者)のことをはっきり言ってよくしらない。そもそもこの「聴者」と「ろう者」という呼び方がいいのかどうかもよくわからないが、小説の中で「聴覚障害者」「聾唖者」「健聴者」などの言い方はあまり良くなく、当事者が「ろう者」と「聴者」という呼び方を好むことにさらりと触れられる。

そして手話についても聴者はろう者が話すためのものという認識で、それがどんなものか知らない人がほとんどだろう。日本であれば日本語を手で表現できるようにしたものだろうくらいに思っている。しかし、この本を読むと、手話は一つの言語であり、日本語とは別物であることがわかる。手話はろう者にとっての母語であり、日本語は第二言語にすぎないのだ。実際手話を言語とする法律の制定を目指す運動も起きている。

ただ、そう簡単ではないのは、ろう者の中にも生まれながらの失聴者もいれば、後天的な失聴者もいれば、大きな音であれば聞こえる難聴者もいる。後天的な失聴者の場合、日本語を先に習得していてあとから手話を習得することになるし、難聴者の場合、補聴器を使いながら相手の唇を読んで発声もある程度できるように訓練する「口話法」を教育される場合も多い。

そのような複雑な状況もあって手話を母語とする「ろう者」の存在が見えにくくなるのだが、母語をしっかり習得することはあらゆる人にとって重要である。思考を形作るのは母語であるからだ。だから生まれながらの失聴者の場合、手話をしっかり習得したうえ第二言語として日本語を習得する事が重要だと考えるのが当然だろう。それゆえ、ろう者は日本語を手話で表現する「障害者」ではなく、手話を母語とする言語マイノリティ集団であると主張するのだ。

このことはこの物語においても、実社会においても非常に重要な考え方だ。日本が多文化共生社会になるために必要なことを考えさせてくれる。それをすっと入ってくる形で物語の中に織り込んでいるのはこの小説の非常に優れた点だと言える。

ミステリーの鍵は「CODA」

そこに主人公の状況を加えててさらに読者を考えさせる仕掛けも秀逸だ。主人公の荒井尚人は両親と兄がろう者で家族の中で自分一人が聴者であるいわゆる「コーダ」だ。アカデミー作品賞などを受賞した映画『Coda コーダ あいのうた』などをきっかけに日本でも知られるようになった「コーダ」はろう者の両親のもとに生まれた聴者の子を意味する。家庭内の言語は手話だから自然と手話が母語になるが、家庭の外では日本語も自然と身につけることになり、映画でもそうだが子供の頃から家族の通訳の役目を果たすようになることが多いという。このコーダであることは荒井の人物形成に非常に大きな意味を持つ。

小説の中で手話通訳士としての顧客から「あんたもろう者だろう」と言われるところがある。ろう者=手話を母語とする人たちとするとコーダは聴者であるが「ろう者」でもあるのだ。荒井はろう者であり、コーダであり、家族の中で仲間はずれでもあり、通訳として使われる立場でもあるという複雑な背景が徐々に明らかになり、それが物語を支える。

ミステリーとしての物語にについては詳しくは書けないけれど、ろうの家族と「もう一人のコーダ」がじわじわと存在感を増し、「ほー」という展開になっていく。前半で読者にろう者や手話についての理解を深めさせ、後半でそれが舞台装置となってミステリーを展開していく手腕は見事だと言えるだろう。

手話を第一言語とするろう者というマイノリティと日本語を母語とするマジョリティ、そしてその間で揺れる主人公のアイデンティティと物語が絡み合いミステリーとしても面白いが、現実の社会問題をも考えさせる優れた創作になっている。そして大事なことを考える切っ掛けをくれる作品でもある。



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