今日の話。
13年前、私は高台にある中学校の4階の教室にいた。
明日は姉の卒業式で、姉の代は早く帰らされ
2つ下の私たちがだらだらと準備に取りかかろうとしていた。
4階で数人の友達と話していたら
突然地面が下から叩かれたように揺れた。
綺麗に並んだ机たちは飛び上がり
ぐるぐると動いたり、倒れたりした。
2、3秒くらいして私は教卓に隠れ揺れを凌いだ。
揺れが少しだけ弱くなった時、
1人の男子が「逃げるぞ!」と言った。
聞いたこともないようなひっ迫した声。
教室に残っていたみんなとその子を追いかけて
まだ揺れがある中すごい速さで階段を降りた。
その子は地震で被災した経験があり、この町に越してきた子だった。
とても心強かったのを覚えている。
1階まで降りると下駄箱の天井が落ちていた。
まだ揺れは続いており、ユラユラとぶら下がった天井板が落ちてきそうで怖かった。
下駄箱を出ると、ちょっとした広場のような場所がある。
噴水の水が溢れて地面が濡れていた。
校庭にも大きな地割れがあるような話を誰かがしていた。
避難してきた人たちが続々と集まり、雪も降ってきた。
私たち中学生の頭上にはブルーシートがかけられ制服一枚でとても寒かった。
みんなで身を寄せて暖をとりながら揺れに怯えていた。
しばらくするとブルーシートの間から小学生の妹が顔を覗かせた。
妹はその日ズル休みをしていて母親と一緒にいたはずだ。
ブルーシートから出て母親の姿を探した。
いない。
「お母さんは?」
「お姉ちゃんを迎えに行くって」
私はとてつもなく嫌な予感がして
妹を友達に預け、母が戻るのを校門のそばでずっと待っていた。
寒いとか怖いとかそうゆう感情はなくて、
ただ母とまた会える事を祈るように立ち尽くしていた。
戻ってきた母の車はすごいスピードで坂を登ってきた。
その車に姉の姿はなく、車のすぐ後ろには波が来ていた。
そこでやっと津波が来ていることを知った私は
急いでフェンスから町を見下ろした。
見下ろした…はずがすぐ足元に真っ黒い水面があった。
恐ろしかった。
赤い屋根の大きな家が傾いて燃えながら流れていた。中には人がいた。
手を伸ばして助けを求めていたと思う。
どうすることもできなかった。
ただスローモーションのようにその映像が流れていき、理解も追いつかなかった。
これからもっと水位が上がるかもしれない
もっと上にいかないとダメだ。
大人たちの声が飛び交い始めた。
妹は母と、先生からの指示で私は友達と
中学校のさらに上にある浄水場まで逃げることになった。
浄水場まで行くには少し坂を降りてから
また登らなければいけない。
早くいかないと水が来て坂を降りられなくなる。本当にすぐそこまで水が来ていた。
浄水場まで上がったのも束の間。
浄水場の向かいにある、町の体育館に移動することになった。
水位を確認しに行った先生が今なら行けるといい、登った坂をまた降りた。
遠目に電車が流れていたのが見え、本当に現実とは思えなかった。
体育館に着くと畳の部屋に入ることができた。
習い事で通っていた場所だったから幾分か安心できた。
小さな道場に何人くらいいたんだろう。
部屋の空気がだんだん薄くなるのがわかった。
窓を開けたりして換気してはいたが
体調不良者も増え、薄暗い空気が
私たちを包んでいた。
友達と手遊びをしたり歌を歌ったり、流行っていたネタを披露したりして気を紛らわしていた。
場違いな会話とテンションだったが
そうでもしなければ周りの鬱々とした空気や揺れの恐怖に飲み込まれてしまいそうだったのだ。
母はずっと姉を心配していた。
次の日が卒業式だったため早く帰らされていた姉は、家にいるはずだったが戻ってみたら居なかったそうだ。
私は軽率に大丈夫だよ、などと母に言ったが
母は張り詰めた顔を崩さなかった。
頻繁に揺れが続き、もう揺れていない時間も揺れているように感じた。
揺れるたびに上がる悲鳴に、さらに恐怖心は煽られ度々過呼吸を起こす人もいた。
2日ほどしても姉の安否はわからなかった。
母はいつ姉が来てもいいようにとほとんどの時間、眠らずにいた。
道場の入り口を見つめては携帯を握りしめ
玄関の掲示板を見に行っては深呼吸のようなため息をついていた。
すると従兄弟から連絡が来たらしい。
姉は一緒に避難していると聞き、母は泣いていた。
母が泣いたのを見て、姉が亡くなった連絡が来たのだと思ったら体が震えた。
生きているという連絡で本当に良かった。
少し経つと、ドロドロの姉と従兄弟が道場の入り口に来た。
従兄弟たちとは同じ敷地内に暮らしていたので早い段階で合流できていたらしい。
水が引いた後、瓦礫の中を歩いてここまで来たと言っていた。
道中、遺体から高価な腕時計を回収したり、自動販売機を壊してお金を持ち出している人を見たと話していた。
地震や津波も怖かったけれど、この時は人間が1番怖かった。
続けて、祖母と母の妹とその長女が
高台には逃げず3階建てのアパートの上に残ったと聞いた。
母が小さい頃、チリ地震津波が町に届いたらしい。その津波を想像していたのだとしたら
想像のはるか上を行く津波が来てしまった。
体育館はとても広かったが、全室が埋まるまでそう時間は掛からなかった。
姉が帰ってきた次の日には、中学生たちは場所を空けるために中学校に戻ることになった。
母たちとは離れ離れにされてしまい、また心細い時間を過ごすことになった。
中学校に戻ると壊れた壁から断熱材などを取り出して簡易的なベットをつくって過ごした。
私は窓際に座り何も食べずにただ外を眺めて過ごした。
何日か経って道路が開通してから母たちと合流し、家までの道のりを歩いて帰った。
想像を絶する景色が広がっていた。
遺体を見つけてしまうのが怖くて、
あまりまじまじと瓦礫を見ないよう
目線を上げて歩いた。
家は跡形もなくなっていた。
土台だけが残り、あとは何もなかった。
それを見て私も母も従兄弟たちも
祖母たちは亡くなったんだと悟った。
誰もそのことについては話さなかった。
家の近くの高台にある避難所に向かった。
祖父がそこに居るらしい。
避難所に到着すると祖父は玄関の近くの寒い場所にいた。
姉を待つ母と同じように、祖母を待っていた。
道路が開通したその日から毎日
祖父は祖母と住んでいた家に向かい、
そこで立ち尽くしていた。
あまりにもさみしい背中だった。
何も声をかけられなかった。
瓦礫が乾いて砂埃が舞っていたから、
あまり外に長居するのは体に良くない。
祖父を連れ戻そうと母たちは声をかけていたようだったが、祖父には届いていなかった。
私は母と、最初に避難した体育館まで出向き、祖母たちの遺体がないか確認しに行った。
遺体を見るわけではなく、ファイルに整理された写真をペラペラと見るのだ。
私はそれを涙ながらに見る母の横で
並んだ遺品を見ながら座っていた。
どの遺体も傷だらけ、水で膨れ上がった顔では判別できなかったらしい。
1ヶ月ほどが経ち、母の妹長女らしき遺体があったと連絡があった。
その時確認の為に、私は初めて遺体の写真を見た。
長く見てはいけないものだと思った。
これを母は何百枚も見て確認していたんだと思ったら涙が出てきた。
祖母と母の妹は結局今も見つかっていない。
避難所生活は私にとって然程辛いものではなかった。むしろ楽しんでいたように思う。
もちろん電気も水道も直る見通しが立たず、困ることはたくさんあったけど
瓦礫の中から食べ物やカルピスの原液を見つけたり、支援物資の洋服の山を漁って好きなものを着たり。宝探しの旅のようだった。
特に自衛隊が設置してくれたお風呂まで歩いて通うのは格段に楽しかった。
お風呂に入っても、帰り道には砂埃に吹かれ
結局砂まみれになってしまうのだがそれも良かった。
私は自分の命を生かされた命だとは思っていない。亡くなった人のために自分は幸せに生きようなどとも思わない。
誰も私のために亡くなったのではない。
震災は生きることと死ぬことについて
多くのことを教えてくれたが、
無慈悲にもまた必ず起きるのだろう。
私にできることはあの震災を教訓にすること。
今目の前にいる人たちを大切にすること。
大切なものは離さないこと。
守れるものは守ること。
伝えたいことは思った時に思った分だけ伝えること。
祖父は何ヶ月か後に肺炎に罹り、祖母たちを追うように亡くなってしまった。
それも幸せなことに感じる程、祖母の事を愛していたように見えた。
あちらの世界があるとするならば、
祖父にとっては死は然程怖いものではなかったのかもしれない。
私は今、素敵な誰かに会ったり幸せを感じる度に震災があってよかったと思えている。
今を一生懸命生きられているのは震災のおかげなのかもしれない。
長いのに最後まで読んでくれてありがとう。
あったかい布団でゆっくり眠ろう。
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