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【試し読み】精読・涼宮ハルヒの動揺

※この記事は、2023/11/11発行の非公式考察本『精読・涼宮ハルヒの動揺 ~非公式考察本シリーズ vol.6~』の試し読みページです。全76ページのうち『はじめに』『イントロダクション』と、『各エピソード考察』の一部をご覧いただけます。
 本書と同シリーズは各書店にて展開中です。もし試し読みで興味を持ってくださった方は、ぜひ下記のページからお求めください。
 購入リンクまとめ:http://jl.ishijimaeiwa.jp/peruse-wavering/


はじめに

 初めましての方は初めまして、そうでない方はこんにちは。小説「涼宮ハルヒ」シリーズのファンサイト・涼宮ハルヒの覚書の管理人兼アニメライターのいしじまえいわと申します。この度は『精読・涼宮ハルヒの動揺~非公式考察本シリーズvol.6~』を手に取ってくださり誠にありがとうございます。

 本書は小説「涼宮ハルヒ」シリーズの第六巻『涼宮ハルヒの動揺』(以下『動揺』、他シリーズ作品も同様に表記します)に収録された各短編の考察を試みた本です。もしあなたが『動揺』や「涼宮ハルヒ」シリーズの小説をまだご覧でないのであれば、ぜひ本書より先にそちらをご覧ください。きっと楽しい時間になるはずです。

 なお、本書は私の刊行する非公式考察本シリーズの第六巻になりますが、今回表紙デザインやレイアウトなどを五巻までから一新しました。主に編集作業の軽減を目的とした変更なのですが、これによって以降の巻を出しやすくなることが期待され、いつか原作の最新刊に追いつければなあと思っています(先日のシリーズ最新刊『劇場』の発表によって嬉しいことに目標は遠のきましたが……)。また、見た目もリフレッシュされたと思うので、新バージョンも気に入っていただけたら幸いです。

 まえがきの最後に、恒例の謝辞を述べさせていただきます。
 いつもハルヒ考察を一緒に楽しんでくださっているハルヒファンのみなさん、本書のデザイン業務や宣伝業務を一手に担ってくれている妻のたなぬ、共に大感謝です。
 そして何より「涼宮ハルヒ」シリーズの物語を生み出し続けてくださっている谷川流先生と彼らの可愛い姿を描き出してくださるいとうのいぢ先生に、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございます! 今年でシリーズニ十周年を迎えましたが、これからも続いていくであろう彼らの物語を引き続き応援させていただければと思います。

 それでは早速、本文に移りたいと思います。以下、レッツゴー!


イントロダクション

発表はシャッフル、掲載は時系列の『動揺』

 本章では『動揺』に収録された物語の考察に先だって、その外枠となる同書の成り立ちや構成に関する情報をまとめます。また、同書を考察するにあたってのコンセプトやレギュレーションについてもこの章で確認します。
 
 『動揺』は「涼宮ハルヒ」シリーズの第六巻として二〇〇五年四月一日に発行されました(注1)。一つ前の巻である『暴走』(注2)から半年空けての刊行ですが、この頃は数カ月から半年に一冊新刊が出ているという状況でした。
 本書には雑誌「ザ・スニーカー」に掲載された『朝比奈ミクルの冒険 Episode00』(注3)、『ヒトメボレLOVER』(注4)、『ライブアライブ』(注5)、『朝比奈みくるの憂鬱』(注6)の四編に書き下ろし作『猫はどこに行った?』を加えた計五編が収録されています。雑誌掲載の短編群に新作一編追加という構成は先行する短編集である『退屈』『暴走』と同じです(注7)。
 
 なお、雑誌に掲載された順としては、『ミクルの冒険』(二〇〇四年二月号)、『射手座の日』(同年四月号、六月号)、『涼宮ハルヒ劇場 ファンタジー編』(同年八月号)、『ヒトメボレ』(同年一〇月号)、『ライブアライブ』(同年十二月号)、『みくるの憂鬱』(二〇〇五年二月号)の順になっています。『射手座』が、おそらくSOS団の秋の物語の補完編的な役割で『暴走』に先に収録されている点と、『ハルヒ劇場』の収録が見送られている点が目を引きます。
 また、発表がかなり後だった『ライブアライブ』が文庫では巻頭に来ていることから、文庫内では時系列順に掲載するという構成意図が読み取れます。二〇〇六年に放送されたTVアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』は、放送時は時系列シャッフル放送、DVD収録時は時系列順収録で話題となりましたが、その元はシリーズ二巻でいきなり秋の話に飛んだ『溜息』に加えて、『動揺』の掲載スタイルにも見出すことができそうです(『退屈』と『暴走』は発表順と文庫内掲載順および作中時系列順が一致しているため)。

(注1) 『動揺』、奥付(三百三頁)より。以下、原則的にスニーカー文庫版の頁を参照する。なお、KADOKAWAオフィシャルサイト等一部のWebサイトでは「二〇〇五年三月三一日発売」と、発売日が記載されている。
(注2) 二〇〇四年一〇月一日発行
(注3) 「ザ・スニーカー」二〇〇四年二月号初出
(注4) 同、二〇〇四年一〇月号初出
(注5) 同、二〇〇四年十二月号初出
(注6) 同、二〇〇五年二月号初出
(注7) なお、文庫書き下ろし作は『孤島症候群』(『退屈』)、『雪山症候群』(暴走)、『猫はどこに行った?』(動揺)となっており、いずれも合宿エピソードのミステリ編という共通点がある。『動揺』以降のシリーズでの書き下ろし短編としては『鶴屋さんの挑戦』(『直観』)もあるが、こちらもミステリ編である。

ハルヒの動揺っぷりにご注目!

 物語の内容に目を向けると、『動揺』はキョンたちの文化祭当日を描いた二編と冬休みから三学期初旬にかけてのエピソードである三編という構成になっています。季節としては秋と冬の話ですが、夏の出来事だけをまとめた『退屈』や各話の冒頭に「序章・夏」など季節を冠したプロローグを新たに配した『暴走』に比べれば、エピソードと季節が綺麗に対応しているというニュアンスは希薄です。詳しくは各エピソードの考察パートに譲りますが、どちらかというと先述の通り「文化祭の話」+「冬頃の話」と理解した方が実態には合っていそうです。
 なお、書籍名である『動揺』については、『暴走』同様その名を冠したエピソードは存在しません。しかし『ライブアライブ』『ヒトメボレ』『みくるの憂鬱』ではハルヒが動揺する姿がそれぞれ印象的に描かれていますから、内容に即した書籍名となっています。

長編と短編
両輪で形成される物語

 本非公式考察シリーズでは、「涼宮ハルヒ」シリーズにおける短編集は番外編ではなく、短編作品においても長編作品と同じように登場人物らの成長や人間関係の変化が描かれている、という観点で考察を行ってきました(注8)。その結果、同シリーズの短編が長編と同じく物語全体の流れの一部を構成していることが明らかにできたかと思います(詳細は拙著『精読・退屈』『精読・暴走』をご覧ください)。
 本書でもその考察コンセプトを踏襲し、各エピソードを主に登場人物とSOS団五人の人間関係の変化という観点から読み解きます。加えて、そういった変化が前後の長編や短編の内容にどのように呼応しているのかという点でも考察を行います。それらの考察を通じてシリーズ全体の構造を読み解き、多くの読者が本シリーズから面白さを感じる理由や構造の一端を明らかにすることを目的とします。
 
 ただし、登場人物にフォーカスしたこの読み方では、たとえば同シリーズの大きな特色である過去のSF作品やミステリ小説へのオマージュによる妙などには言及できません。というより、私にそういった分野をカバーするだけの知識や能力がないため、考察する範囲を絞っているというのが実情です。
 
 本書で扱うのはあくまで「涼宮ハルヒ」シリーズの面白さの一端に過ぎず、本当はもっと多くの面白さを内包していることは前提としてご理解ください。そして私以外の方々によってより多くの面から同シリーズの面白さが語られることを望みます。
 また、各エピソードそのものに対する考察は、全く無くはないものの比率は低めになっています。その点もご容赦ください。

(注8)富士見ファンタジア文庫より刊行の『スレイヤーズ』シリーズや『フルメタル・パニック!』シリーズなど、「涼宮ハルヒ」シリーズ以前のいくつかのライトノベルシリーズでは、短編集は長編や本編に対する番外編と位置付けされており、内容もシリアスな本編に対して短編はギャグ中心であるなど差別化されていた。「涼宮ハルヒ」シリーズにおいてはそういった区分はなく作風の差もないが、新作短編集の発売が告知される度に「短編かよ」「長編じゃないのか」といった反応が見られるのは、「ライトノベルにおける短編は番外編」という概念を本シリーズにも適応している読者が一定数いることに起因していると考えられる。

本書での考察レギュレーション

(過去に投稿した『【試し読み】精読・涼宮ハルヒの溜息』と同様の内容であるため割愛します。内容についてはこちらをご覧ください。)


各エピソード考察

ライブアライブ

時をかける『ライブアライブ』

 本章では『動揺』に収録された五つの短編について、「作品の概要」「筆者(私)の所感」「SOS団五人それぞれの内面や状況についての一つ前のエピソードまでのおさらい」「五人の内的/関係性の変化」といった観点から考察を行います。エピソードによっては右記の項目全てについて触れなかったり順番が前後したりする点はご承知ください。
 
 本項ではまず『ライブアライブ』の概要について、作品外の情報も含めてまとめます。
 先述の通り、本作は「ザ・スニーカー」二〇〇四年十二月号に掲載されました。掲載された順番は同年十月号掲載の『ヒトメボレ』の次になります。また作中の時系列としては十一月の文化祭当日までを描いた長編『溜息』の直後、『暴走』に収録された『射手座』の少し前の話です。
 雑誌掲載エピソードを発表順に並べると、『退屈』(六月の出来事)、『笹の葉』(七上旬)、『ミステリック』(七月下旬)、『エンドレスエイト』(八月中旬~九月一日)、『ミクルの冒険』(十一月、文化祭当日まで)、『射手座の日』(十一月下旬)、『ハルヒ劇場』、『ヒトメボレ』(十二月下旬)『ライブアライブ』(十一月、文化祭当日)の順になります。二〇二三年一〇月現在においては作中のどの時期に組み込まれるか不明な『ハルヒ劇場』を除けば、十一月の出来事である『ライブアライブ』は初めて明確に時間をさかのぼって雑誌掲載された作品だということになります。
 
 『ライブアライブ』が掲載された号の「ザ・スニーカー」は表紙をハルヒが単独で飾っており、内容的にも「涼宮ハルヒの挑戦」と題された巻頭特集が組まれ、さらに付録にも「ハルヒ主義SOS団ネームカード」が付くなど、ハルヒ総特集の号となっていました。当時の同誌における『ハルヒ』人気や、編集部による強力な押し出しっぷりが伺えます。
 
 数ある特集の中でも特に目玉企画と言えるのが、谷川先生へのインタビュー記事「谷川流の挑戦」と長門による選書リストという体裁の「長門有希の100冊」です。
 
 興味深い証言が多数収録された「谷川流の挑戦」ですが、最も目を引くのは作者が珍しく自作の内容や執筆の経緯について詳しく触れている点です。これについては『精読・溜息』で触れたので今回は割愛しますが、『溜息』や『消失』の成り立ちを知る上で要チェックな内容になっています。

 「長門有希の100冊」は谷川先生の読むジャンルの広さ・深さを窺わせる内容となっており、発表当時話題になりました(注13)。後年「ザ・スニーカー」二〇〇六年一〇月号ではこの特集をモチーフにしたポスターが付録となっており、本企画が好評を博したことが窺えます。
 なお、挙げられた作品の中には長門と(何故か)古泉くんが吹き出しで短評を添えているものもあるのですが、長門はSF系の作品、古泉くんはミステリ系の作品への言及が比較的多めになっています。古泉くんのミステリ好きは『孤島』『雪山』などで匂わされてはいたものの、そのこだわりっぷりがはっきり描かれたのは遥か後に発表された『鶴屋さんの挑戦』においてでした。遡ること十六年、この頃から古泉くんのミステリ好き設定は存在していたのかもしれません(注14)。
 完全に余談ですが、今となっては「古泉一樹の100冊」というミステリ小説を中心とした特集企画も成立しそうなので、ぜひどこかで実現してもらいたいなと密かに期待しています。

(注13) 選書を作者が担当したかは明示されていないが、本企画で選出された本が作中に登場するなど、それと思しきラインナップになっている。なお、作者はデビュー前にミステリやSFの書評サイトを運営しており、ミステリ作家の朝松健氏を応援していた。同氏の著書も長門有希の100冊にラインナップされている。
(注14) 雑誌掲載の特集での人物描写は本書の考察範囲外であるため参考に留める。

時系列さかのぼりの必要性

 続いて『動揺』巻末の作者コメントを見てみましょう。谷川先生は『ライブアライブ』について以下のように述べています。

 せっかくの文化祭なのに当日の出来事を何一つ描写していないことに妙な後ろ髪を引かれていたため、つらつらと考えていた話を文章化する必要に駆られて書いた記憶があります。どちらかといえばハルヒがメインの回。(注15)

 概して言えば、雑誌掲載の短編シリーズの物語は十二月の出来事を描いた『ヒトメボレ』まで進んでいたのに、わざわざ時をさかのぼる形で十一月の出来事である『ライブアライブ』を発表した、その背景について述べています。
 その背景とは「文化祭当日の話を書く必要性に駆られて」ということですが、何故その必要があったのかについて、私は「『溜息』の補完のため」と考えました。詳しくは先述の『精読・溜息』をご覧いただきたいのですが、要するに「文化祭当日までハルヒが自分の好き放題やるのが『溜息』」「そんなハルヒが文化祭当日に他人のためになることをして感謝されて動揺を見せ、少しだけ成長するのが『ライブアライブ』である」ということだとご理解いただければ幸いです。
 この説の妥当性はひとまず置いておくとしても、『ライブアライブ』の内容を理解する上で、それが文化祭当日、つまり『溜息』の直後の出来事であることは気に留めておくべきポイントであると思われます。何故なら、登場人物の内面や関係性の変化も、その時期ならではのものである可能性があるからです。
 
 なお、上述の巻末コメントにはもう一点気になる箇所があるのですが、それは本文考察の中で触れたいと思います。

(注15) 『動揺』、二百九十八頁

このキョン
いつのキョン?

 それでは続いて『ライブアライブ』本文の読解に移りましょう。
 本作には他の作品と少し様子が異なるポイントが二点あります。それは書き出しの時制と最後の一ページの存在なのですが、登場人物の内面に目を向ける前にその二点について触れておきたいと思います。
 まず書き出しの時制について。本作は以下のような文章で始まります。

 俺が高校に入学した年。
 涼宮ハルヒという名前を持つ人型の異常気象が北高で猛威を振るい始めたその年は、思えば色々あったもので、(中略)そんな記憶の中に刻まれていたエピソードの一つに実はこんなものもあったという話をさせていただこう。(注16) 

 一読して分かる通り、キョンが過去を回想する形で物語が始まっています。それ自体は他の多くのエピソードと同じなのですが、本作ではその振り返りのレンジが広く、かなり未来から高校時代を振り返っているようなニュアンスで書かれているのです。
 参考までに『動揺』に収録された他のエピソードの書き出しをピックアップしてみましょう(注17)。

 人騒がせな一本の電話が始まりの合図だった。
 毎年のことだが過ぎるや否やあっという間に終息するクリスマスムードは今や余韻すらなく、(中略)ハッピーニューイヤーにはそれなりの猶予がある冬休みのことである。(注18)

 一年の最終時点に向けてひたすら漸進していた冬休みの中盤、(中略)ともあれバタバタしてたのが大晦日イブで、カレンダー的には十二月三十日だ。
 明けて次の日、つまり大晦日。(注19)

 宝くじを買って何の見返りもない確率と同じ程度に、予想通りやっぱり何だかんだとあった冬休みもつつがなく終了し、(中略)シブシブ登校し始めてしばらく経った頃の話である。(注20)

 『ライブアライブ』以外はいずれも「ある一年の中のいつ頃の話か」を物語冒頭で明示しています。これは他の巻のエピソードでも大体共通しているのですが、一方『ライブアライブ』は「どの年の出来事なのか」を最初に述べています。他のエピソードにこのような特徴はあまり見られません(もし同じにするとしたら、一年目の全てのエピソードの冒頭に「俺が高校に入学した年。」と同じ意味の記述があるはずです)。
 ここから、本作ではキョンが高校一年生の時のことを振り返るくらい、少なくとも一年後の未来から高一の文化祭の日の出来事を振り返っているようなニュアンスが生まれています。これは一体何を意味しているのでしょう?
 
 『憂鬱』の冒頭など、本作以外にも遠い未来から過去を回想しているとも解釈可能な記述は他にもありますので、見たまんま「どういうわけか『ライブアライブ』は遠い未来のキョンが回想したお話である」と理解してもいいと思います。ですが前の項でご紹介した本作の発表経緯を鑑みると、他の理解もできそうです。それは『ライブアライブ』冒頭のキョンは『みくるの憂鬱』あたりの時点、つまり高一の三学期、一月中旬頃のキョンではないかという解釈です。
 
 前述の通り、雑誌掲載における『ライブアライブ』は一旦『ヒトメボレ』まで進んだ物語を約一ヵ月戻す形で発表されたエピソードでした。また、本作の掲載と前後して『暴走』も発行されていましたから、文庫も雑誌も読んでいる熱心なファンであればハルヒたちの物語は高一の十二月三十日まで進んだと感じていたはずです。そこから、次の物語は入学した年の翌年の話だと期待していてもおかしくありません。(注21)そのため、何の説明もなく文化祭の話を始めてしまうと、それが過去の話なのか、逆にまた半年ほど未来に飛んだ高二の文化祭のことなのか不明瞭になってしまう状態だったのです。
 また、実際この次の号では翌年一月の『みくるの憂鬱』を掲載して読者の期待に応えていますから、『ライブアライブ』の冒頭は読者の「そろそろ年を越したあたりの話だよね!」という実感に沿った時制で書かれているのだと考えられるのです。
 
 この理解を採ると、自ずと「涼宮ハルヒ」シリーズにおける雑誌掲載エピソードと文庫書き下ろし作の関係や、作品のメタフィクション性(読者の実感を想定した語り方をするキョンなど)が気になってきます。こういった作品外の要素は本書で定めた考察レギュレーションの範囲外ともとれるのですが、実際「涼宮ハルヒ」シリーズをメタフィクション性、言い換えると、私たちの現実から切り離して読解可能かは現状不明です。そのため無関係とは言い切れないなあということで触れておきました。
 
 なお、「一月の時点から昨年の十一月を振り返っているにしては『高校に入学した年』は大仰すぎない?」と思われる方もいるでしょう。実際一年前どころかわずか二ヵ月前の出来事ですし、同じ学年での出来事でもありますから、正直私もそう思います。
 ただ、キョンは彼が高一の三学期の時点で中一だった年の七夕のことを「四年前の七夕」(注22)と表現していることなどから察するに、学年や年度ではなく西暦で物事を捉えるタイプなことが窺えます。その観点で言えば、一月であっても年越し前のことを『高校に入学した年』と表現するのは自然、ということになりそうです。

(注16) 『動揺』、五頁
(注17) 作中作である『ミクルの冒険』を除く。
(注18) 『動揺』、九十五頁
(注19) 同、百八十七頁
(注20)同、二百四十二頁
(注21) 実際「谷川流の挑戦」には「ハルヒの今後はどんな展開が?」「彼女たちは順当に進級するでしょう。」「ハルヒたちは2年、みくるは3年にと。」(「ザ・スニーカー」二〇〇四年十二月号、十二頁)というやり取りが掲載されており、シリーズの次の展開が物語開始から一年後のものになることが明示されている。
(注22) 『陰謀』、十七頁

〈各エピソード考察『ライブアライブ』試し読みはここまで〉

朝比奈ミクルの冒険 Episode 00

番外編だった『ミクルの冒険』

『ミクルの冒険 Episode00』は「ザ・スニーカー」二〇〇四年二月号に掲載されました。この号は「特集 涼宮ハルヒに密着!?」と題した特集企画が組まれており、巻頭から見開き五面に渡るカラー特集でキャラクター紹介などがされています。また付録もハルヒの下敷きとなっており、かなり『ハルヒ』を押し出した号となっていました。

そういった特集の中の目玉として『ミクルの冒険』は掲載されているのですが、本作には一つ他の雑誌掲載エピソードと異なる点があります。
「涼宮ハルヒ」シリーズの雑誌掲載作は、多くの場合『涼宮ハルヒの退屈』シリーズと銘打たれていました。たとえば『ヒトメボレ』は雑誌掲載時は『涼宮ハルヒの退屈 ヒトメボレLOVER』という作品名で、雑誌の表紙には『涼宮ハルヒの退屈』というシリーズ名の方が掲載されていたのです。
一方『ミクルの冒険』はそういったシリーズ名を冠しておらず、目次上は「スペシャル☆エクシビジョンノベル 朝比奈みくるの冒険」となっています(「ミクル」が「みくる」になっていたり「Episode00」が抜けていたりするのは編集のミスだと思われます)。
雑誌掲載作でありながら『退屈』シリーズ扱いされていないのは、『ミクルの冒険』を除けば『ハルヒ劇場』二作と『分裂』と『驚愕』の先行掲載特集、TVアニメ版『サムデイ』の脚本、「谷川流特別寄稿」と題されたタイムループに関する考察文「a study in August」などです。
読み切り短編として掲載された中で『退屈』シリーズに含まれなかったのは『ミクルの冒険』と『ハルヒ劇場』二作です。『ミクルの冒険』は元はどちらかというと『ハルヒ劇場』寄りの番外編扱いだったわけです。
ただし二〇二三年九月にシリーズ最新刊『涼宮ハルヒの劇場』の制作が発表され、『ハルヒ劇場』二作も文庫に収録されることが決定しました。そのため、『ミクルの冒険』同様、『ハルヒ劇場』も今後は番外編扱いではなくなりそうです(内容方次第ですが)。

それはさておき、『ミクルの冒険』が番外編扱いだったのは、「ハルヒたちが撮った映画が小説になって登場」という、作中作のノベライズ作品の体裁をとっていたからだと考えられます。『溜息』の発行が二〇〇三年一〇月、『ミクルの冒険』が掲載された「ザ・スニーカー」二〇〇四年二月号は二〇〇三年末頃には発売されていたはずですので、『溜息』刊行後、割とすぐに本作を読むことができました。『ライブアライブ』に続き、ここでも読者に文庫の書き下ろし作と雑誌掲載エピソードをパラレルに楽しんでもらいたいという送り手側の意図があったように思われます。
雑誌掲載版と文庫収録版との大きな違いは、各頁の隅に看板を持ったバニーやカエルの着ぐるみ姿のみくるちゃんのイラストが配されていることです。看板部分には物語の進行に応じて「スタート」「牛ハラミ百グラム98円?」「ミクルVSユキ」「ユキ誘惑?」「にゃぁ~あ」(このコメントのみシャミセンが持った看板に記載)「イツキ覚醒」「ついに大団円」(注67)などと記載されています。
また、キョンの「しばらく主演女優二人による大森電器店CMをお楽しみください。」(注68)「ここでCM第二段、主演女優二人によるヤマツチモデルショップの店舗プロモーションフィルムをご堪能ください。」(注69)のモノローグの前後に、『溜息』で描かれたCM撮りの際のセリフを短縮したものが別枠横書きで配されています。
このようにデコレーションが少し多めで番外編的な雰囲気を醸し出している一方、本文の中身は文庫収録版と大きな差は無いようです。

(注67) 「ザ・スニーカー」二〇〇四年二月号、十九~三十三頁。なお「牛ハラミ~」については「『牛ハラミ肉百グラム98円(ハートマーク、牛のオリジナルイラスト入り)』とマジックで手書きされたプラカード」(同、二十一頁)という記述があるが、残念ながら牛のイラストは再現されていない。
(注68) 同、二十二頁
(注69) 同、二十七頁

あっちもこっちもメタ構造

 『朝比奈ミクルの冒険』は『溜息』で描かれた撮影模様に、さらにいつの間にか(おそらく文化祭直前などにまとめて)撮影していたパートを加え一連の物語にしたものをキョンが読み上げる、というものになっています。
 『溜息』後半にて古泉くんが思考実験として「もし我々の世界をどこか遠くから眺めている存在がいたとしましょう。」(注70)と、メタ的ともとれる講釈をしていましたが、『ミクルの冒険』もまた作中作というメタ的な存在となっています。その面でも本作は『溜息』との関連を強く意識させる一作となっています。
 また、新規に撮影されたパートでは既刊読者も聞いたことの無い作品設定(『ミクルの冒険』のではなく「涼宮ハルヒ」シリーズの方の設定という意味です)らしきものが語られるなど、単に作中作をノベライズしただけの番外編とは言えなさそうな内容となっています。
 
なお、巻末の作者コメントでは、本作について以下のように記されています。

 次回、「長門ユキの逆襲 Episode00」および、三部作完結編「古泉イツキの覚醒 Episode00」に引き続くかどうかは――ちょいと僕にも解りません。監督の気分しだいといったところでしょうか。ハルヒのハの字も出てこない話。(注71)

映画『STAR WARS』シリーズの清々しいまでの露骨なパクリです。一九九九年に公開されヒットした映画『STAR WARS』シリーズの(当時の)最新作の副題が『エピソード1 ファントム・メナス』でたが、その当時ハルヒは中学生でしたから(注72)、その影響を受けたものと思われます。
ただ、それなら三作目も元作品に倣って「古泉イツキの帰還 Episode00」か「古泉イツキの復讐 Episode00」にしそうなものです。何故涼宮監督がそこだけオリジナリティを発揮しようと思ったのかは不明ですが、『動揺』の発行から約十年を経て公開された『STAR WARS Episode7 フォースの覚醒』で改めてタイトル被りをしているあたり、さすが次元を超えた能力を持つかもしれない涼宮ハルヒ(注73)、と思えなくもありません。

(注70) 『溜息』、二百三十三頁
(注71) 『動揺』、二百九十九頁
(注72) 「中学を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。一縷の期待をかけていた一九九九年に何が起こるわけでもなかったしな。」(『憂鬱』、七頁)キョンとハルヒは同学年のため、九十九年当時ハルヒも中学生だったことになる。
(注73) 「涼宮さんの改編能力は物語外部の世界にも影響を与えるだろうからです。」(『直観』、四百四頁)古泉が「改変」ではなく「改編」という語句を選んでいる点が興味深い。

超解釈
イツキvsユキの問答

 『ミクルの冒険』は作中作であり、特にみくるちゃん、長門、古泉くんの三人は一応役を演じているため、本書の考察対象である彼ら本人の内面や関係性の変化は非常に読み取りづらい一編となっています。
 そのため本項では本作で描かれている内容のうち、作中作に限った内容ではないと思しき部分に注目し、そこから考察可能な範囲について触れるに留めたいと思います。
 
 本作の内容で作中作に限った話ではないと思われる最も気になる箇所といえば、やはり終盤のユキとイツキの問答でしょう。

 それは本当にイツキにのみ投げかけているセリフで合っているのか?
 (中略)
 「なるほど。どっちにしても彼……いやこのシーンでは僕ですか、」
 (中略)
 言いかけてイツキは言葉を句切り、なぜかカメラ目線で含みのある視線を送ってきた。(注74)

 このように、かなりくどいくらい「ここには何かありますよ、この発言は作中作に限ったことではないかもしれませんよ」というアピールがされています。また、何故か鶴屋さんも「あん時の映画、文化祭のヤツだけどっ。ひょっとして、あれ、本当の話?」(注75)「未来人か宇宙人だったら、どっちがいい?(中略)そろそろ決めといたほうがいいかもにょろよっ!」(注76)と、この時の会話の内容が作品内限りのものではないと判断しているようです(注77)。
 なお、イツキ役を演じているのは古泉くんですが、上述の二つ目と三つ目の記述から察するに、彼は現実世界でイツキのポジションにいるのはキョン(彼)だと考えていると思われます。キョンは草野球の時も四番になっていますから、ハルヒの無意識が実はキョンに主役をやることを求めていたのだとしてもあまり違和感はありません。
 そこで、ユキとイツキの会話の内容を、イツキ=キョン、ユキ=長門、ミクル=みくるちゃんと置き換えて再確認してみましょう。
 
①(長門の立場の見解としては)キョンはみくるを選ぶべきではない。キョンの力は長門と共にあって初めて有効性を持つことになる。
②キョンの選択肢は、長門と共に宇宙をあるべき姿へと進行させるか、みくるに味方して未来の可能性を摘み取るかの二択である。
③キョンが鍵となっており、鍵には扉を開ける効果しかない。扉を開けた時に何かが変わるのだろう。
④おそらく変わるのは……
 
 これ以降の発言は役柄ではなく古泉くんと長門自身の立場から話しているように思われるので、上記の四点のみに注目します。
 
 まず①について。この発言の後、古泉くんは深刻な顔つきで「えっ。それはどういうことですか?」(注78)と聞いていますから、ここからがメタ的発言だと思われます。
 そしてその内容を②や③を踏まえて考えると、「長門はキョンを介してハルヒの能力の扉を開くことで宇宙をあるべき姿へ進行したいと考えており、そこにこそキョンの力の有効性を認めている」というような感じになるかと思います。
 長門は『憂鬱』において「涼宮ハルヒは自律進化の可能性を秘めている。」(注79)「あなたは涼宮ハルヒに選ばれた」(注80)と説明していますから、彼女らが自律進化の可能性を「あるべき姿」と捉えているとすれば、ユキの言っていることは長門が現実でキョンに説明した内容とほぼ同じです。ですから読者には、このメタっぽい発言が実際本当のことを言っているらしいことが分かります。
 むしろ、長門がわざわざキョンを自室に呼び出してから明かしたくらい機密レベルが高いと思われる情報を聞いて、古泉くんが即座に現実の話をしていると理解したことの方が驚きです。『機関』の調査能力がそれくらいすごいのかもしれませんし、長門が撮影中のカメラの前でペロッと話すということは、五月の時点では重要秘密だったものの十一月の時点ではそうではなくなっているのかもしれません。
 
 次に②の内容は「長門の目的は宇宙をあるべき姿へと進行させること(おそらく自律進化のこと)、みくるの目的は未来の可能性を摘み取ること」であり、さらに「これらは二択であってどちらかしか選べない」ということも含んでいそうです。
 「未来の可能性を摘み取る」というと何か悪いことをしようとしているように思えますが、長門は『溜息』でキョンに「彼女は彼女が帰属する未来時空間を守るためにこの時空に来ている」(中略)「未来の固定のためには正しい数値を入力する必要がある。朝比奈みくるの役割はその数値の調整」(注81)と説明していますから、役柄上悪そうに言っているだけで、要は「みくるちゃんは他の未来ではなく自分の(彼女からすれば本来の)未来が確定することを目的としている」ということの言い換えと言えそうです。これもキョンにとっても読者にとっても既知の情報ですが、それが二者択一であり両方実現することはできないらしいことは新情報です(これが『ミクルの冒険』の設定の話でなければ)。
 また、ここでも古泉くんは「なるほど。」(注82)と言うだけですぐに③の話題にシフトしていますから、仮に初耳だったとしても彼にとってこの話題はそれほど重要ではなかったように思われます(注83)。
 
 ③の内容も、『笹の葉』での古泉くんの以下の発言と相似です。 

 「もっとも我々の場合、キングにたいした値打ちはないのですよ。より重要性があるのは、あくまでクイーンなのでね」(注84)

 キングをキョン、クイーンをハルヒと読み替えれば、③の発言前半とほぼ同じであり、これまたキョンと読者には既知の情報だと分かります。
 ちなみにこの古泉くんのキョンに対する低めの評価も、『ヒトメボレ』での「今や彼女(長門)は涼宮さんやあなたと同じくらいの重要人物ですからね。」(注85)という発言に見られるように、十二月末時点ではかなり上方修正されています。つまり③の内容も、あくまでその時点での認識に基づいたもののようです。
 ③後半の「扉を開けた時に何かが変わる」というのはこれまでになかった情報だと思われます。ただし、鍵(キョン)が扉(ハルヒ)を開くというのはどういうことなのかは不明です。とにかくキョンがハルヒに何か働きかけることで何かが変わり、その変化によって自律進化の可能性か未来の固定のどちらかが実現され得る、ということのようです。
 
 ④については、発言の途中で「言いかけてイツキは言葉を句切り、なぜかカメラ目線で含みのある視線を送ってきた。」(注86)とあるため、この視線の解釈次第で意味が変わります。変わるのは鍵(キョン)だからカメラマンであるキョンに向けて含みのある視線を送ったのかもしれませんし、何が変わるのかを言いたくなかったから言葉を句切って「映画に関係のない話はここまでです」という意味でキョンに視線を送ったのかもしれません。ただし、ここまで鍵と扉の話をしていたのですから、変わるとしたら鍵か扉のどちらかではないかと思えます。

(注74) 『動揺』、七十五頁
(注75) 『暴走』、三百十七頁
(注76) 『陰謀』、四百五頁
(注77) そう判断した理由は不明だが、二年時には国木田も「僕は(九曜と)似たようなことを朝比奈さんと長門さんにも感じるんだ。気のせいだとは思ってるんだけど、どこかが違う。」(『驚愕(前)』、二百四十八頁、カッコ内筆者加筆)と彼女らの異質さを察しているため、映画の内容をそれに加味して判断したのだと思われる。
(注78) 『動揺』、七十五頁
(注79) 『憂鬱』、百二十三頁
(注80) 同、百二十四頁
(注81) 『溜息』二百四十九頁
(注82) 『動揺』、七十五頁
(注83) ハルヒの能力の二者択一性について古泉がどう考えたのかは分からないが、少なくとも未来人については「どうとでもできます」(『暴走』、二百六十二頁)とも述べていることから、彼にとって本当に重要ではないようである。
(注84) 『退屈』、百三十一頁
(注85) 『動揺』、百三十七頁、カッコ内は著者による補足。重要度が上がった順が長門よりキョンの方が先だったというのは意外といえば意外である。
(注86) 『動揺』、七十五頁

〈各エピソード考察『朝比奈ミクルの冒険 Episode 00』試し読みはここまで〉

ヒトメボレLOVER

嵐の前の
静かな一挙掲載

 『ヒトメボレLOVER』は、「ザ・スニーカー」二〇〇四年一〇月号に初掲載されました。この号は『バイトでウィザード』(椎野美由貴)が表紙を、同作と『ムシウタ』(岩井恭平)がダブル巻頭特集を飾っており、二作の後輩作品である『ハルヒ』の掲載は雑誌中央やや後ろでした。
 『ハルヒ』関連では、表紙などで「大増量!!120枚一挙掲載」と銘打たれている点や(実際本作は『ライブアライブ』『ミクルの冒険』などに比べると長めのエピソードになっています)、小説本編の掲載の後にみずのまこと版『涼宮ハルヒの憂鬱』のコミックス宣伝漫画が「単行本①巻が出るわよっ!!」というハルヒのセリフと共に掲載されています。この記述から察するにこの時点では二巻以降も刊行される予定があったものと思われます。
 総じてこの号における『ハルヒ』の扱いはそれほど大きなものではありませんでした。ただ、この次の二〇〇四年十二月号は『ハルヒ』特集ですし、同年二月にも特集を組まれていますから、隔月刊行で年六回のうち二回が『ハルヒ』特集であり、既に同誌においてはかなり人気作だったことが窺えます。なお、約一年後の二〇〇五年一〇月号にてアニメ化が発表されて以降はこの特集頻度は飛躍的に上がることになります。
 
 文庫の巻末解説では、二百九十九頁にて本作について以下のように述べられています。

 『消失』以降「雪山症候群」以前の挿話。アメフトは昔から好きなスポーツでけっこう観ていたりするのですが、地上波では滅多にライブで観られないので結果を先に知ってしまうことが多くて残念です。どう見ても長門がメインの話。

 実際には『雪山』の冒頭部分の方が『消失』のエピローグに直接接続しているのですが、作者が本作を『消失』と『雪山』の間に位置づけている点は興味深いところです。谷川先生としては本作の内容が『消失』に直接つながる話と捉えている、ということが窺えます。
 長門がメインの話であるということに関しては多くの方が異論はないと思いますが、これも『ヒトメボレ』を『消失』の後日談と捉えると意味がありそうです。
 
 なお、『消失』は二重カギカッコ、『雪山』はカギカッコなのが若干気になりますが、現状このような表記上の法則性などは見つかっておらず、おそらく表記ゆれではないかと思います。もしこの件で何か見識をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非ご一報ください。

シリーズ初の恋愛編!?

 シリーズ第一作である『憂鬱』では、キョンとハルヒの関係において恋愛感情は重要なファクターになっていました。また、時系列上『ヒトメボレ』の直近の話である『消失』でも古泉くんがハルヒへの恋愛感情を口にしています。その他の様々な描写も含めて、「涼宮ハルヒ」シリーズがここに至るまで恋愛というモチーフにノータッチだったわけではありません。ですが逆に恋愛が主なテーマだったかというと、他にも様々な要素が描かれているためそうとも言い切れませんでした。
 ですが『ヒトメボレ』は一目惚れやloveという語をタイトルに冠している点に加え、少なくとも表面的には長門の恋愛感情には踏み込まなかった『消失』の後日談と位置付けられる点からも、SOS団の、特に長門に関する恋愛模様や感情が描かれていることが期待されます。
 そこで本項では五人の内的成長や関係性の変化に着目しつつ、特に「恋愛」という観点から彼らに着目してみようと思います。当然「これが正解だ!」というものではありませんが(これは本書の内容全てに言えることです)、こういう見方もまた一興、と思っていただけたら幸いです。

普通少女みくるちゃん

 まずみくるちゃんについて。長門への想いをしたためた手紙の内容について「ちょっとステキですね」(中略)「こんなに誰かに好きになってもらえたら、少し嬉しいかも……。十年かぁ。本当に待ち続けることができる人に会いたいですね。なんだかロマンチック……」(注105)と述べています。呆れたようなキョンの反応もあってギャグっぽい一幕ですが、実際に時間を渡ってきた彼女の立場を考えると、「待つ」という行為でその時間の隔たりを超えてくれるような忍耐力のある人物に魅力を感じてしまう面があるのかもしれません。
 また、中河の臆面もない文面にも退いている様子がありませんし、後述する古泉くんのダイナミックアプローチも受け入れていましたから、みくるちゃんは割と直接的な表現を好むタイプなのかもしれません。キョンのみくるちゃんに対する数多の賛辞の言葉はほとんどモノローグ内に留まっていますから、彼はせめてもうちょっとちゃんと口に出した方がいいような気がします。
 
 この発言の前のシーンにも彼女の恋愛観と人間関係の把握が表れていると思しき場面があります。
 ハルヒがキョンを締め上げている場面に遭遇した際は、控えめに「……あの……。お取込み中ですか? 出直したほうが、その、いいでしょうか……?」(注106)と言っています。仮に彼女が恋愛沙汰に全く疎い人物であったなら、取っ組み合っているキョンとハルヒを見てまず喧嘩をしているのではないかと思うはずです(実際ほぼ喧嘩みたいなものですし)。そして仮に彼女が喧嘩の最中だと判断したなら、部室を去ろうとはせず『溜息』にてそうしたように(注107)果敢にも仲裁を試みるでしょう。ということは、みくるちゃんはハルヒとキョンの揉み合いを見て即座に痴話ゲンカだと見抜いたのだと思われます。
 なお、彼女の目には「何事もないように座っている」(注108)長門の姿もあったはずです。みくるちゃんが「キョンとハルヒの痴話ゲンカの横に長門がいる」と思ったのか「長門を交えた三人の恋愛関係による痴話ゲンカ」と思ったのかは不明です。が、私はなんとなく後者ではないかと思っています。『射手座』で他人のPCのキーボードを激しくたたき続ける長門に「あ、あの……。そんなに力入れると壊れるんじゃあ……」(注109)と弱々しくも注意したように、自分がこうあるべきだと思うことは苦手な長門に対してでもキチンと伝えるタイプの人です。仮にキョンとハルヒ二人の痴話ゲンカだと思ったなら、「長門さんも一緒に出ましょうか……」くらい言ってもおかしくないように思います。
 また、『雪山』にてハルヒと古泉くんはクリスマス後からキョンと長門の関係が変わっていることに気付いていました。仮にみくるちゃんも同じようにその気配を感じていたとしたら、キョンとハルヒの痴話ゲンカの場に長門がいることにむしろ納得するでしょう(しかもその理解は実際ほとんど合っていますし)。
 この件は結局どちらが正しいのかはっきりとは分かりませんが、どちらにせよみくるちゃんは二人(または三人)のいざこざを一目見て「あ、これは痴話ゲンカだな」と憶測するくらいには他人のことを理解している、と考えられます。
 みくるちゃんは見た目や素行は萌えキャラのようですが頭の中までポワポワしているわけではなく、少なくとも普通に人を見てその内面や恋心を理解しているように読み取れます。それがここで描かれているのは、ある意味で『陰謀』への伏線のようにも思えます。
 
 もう一つ、先ほども少し触れましたが、古泉くんにコーヒーをおごると提案された際、みくるちゃんはおずおずとながら(おそるおそる、という意味です)頷いてOKを出しています。長門に対する苦手意識と同じく、みくるちゃんは『憂鬱』の時から一貫して古泉くんには割と好意的です(注110)。ここで恐縮しているのは、彼がイケメンだから照れているのか、「(デートの経験が)ないんです」(中略)「わたし、誰とも付き合うわけにはいかないの。」(注111)と言った通り男性との交際経験が少ないためなのか、はたまた古泉くん個人に対してそれ以外の含みがあるのかは定かではありません。

(注105) 『動揺』、百三十二頁
(注106) 同、百二十六頁
(注107) 「だめだめですっ。けんかはだめなのです……っ」(中略)「うう……っぷ。みんなはなかよくしないといけません……。そうしないと……んー。ああこれきんそくでしたぁ」(『溜息』、百九十八頁)
(注108) 『動揺』、百二十七頁
(注109) 『暴走』、百五十六頁
(注110) なお、作中初対面時にみくるがオセロ盤に頭を突っ込んだ際に古泉が声をかけ、「その転校生をまぶしげな目で見上げた。」(『憂鬱』、百七頁)のが二人のファーストインプレッションである。みくるが彼に好感を持ったのか単に恥ずかしかったのかは定かでないが、少なくとも悪い印象は最初から持っていなかったようである。
(注111) 同、百四十四頁、カッコ内は著者による追記。

キョンの挫折

 キョンの恋愛観については本作で大きな情報公開がいくつかありました。
 中でも顕著なのは「だいたいな、高一の分際で真面目に愛を語ろうなんざ、それこそ頭がイッちまっていると言うべきだろう。口に出すのも恥ずかしいね。愛だって?」(注112)という認識を持っているということです。
 キョンは高校入学時点では朝倉をして「そりゃ彼女にするんならこっちかな、俺だって。」(注113)と言ったり、ハルヒに「いい男でも見つけて市内の散策ならそいつとやれよ。デートにもなって一石二鳥だろうが」(注114)と提案したり、あまつさえみくるちゃん(大)には「俺はキスでもしたほうがいいのかなと思って朝比奈さんの肩を抱こうとし」(注115)たりしており、特に最後の意味不明な思考は 頭がイッています。彼女や彼氏を作ることと真面目に愛を語ることはイコールではないかもしれませんが、少なくとも入学当初は『ヒトメボレ』時点よりもずっと恋愛志向だったのは間違いないでしょう。
 何故この時キョンがこれほどまでに恋愛に積極的だったのかについては、ハルヒに彼氏を作るよう提言した際の「普通の高校生らしい遊びを開拓してみたらどうだ」(注116)という発言に表れています。
 キョンは『憂鬱』のプロローグにある通り、中学までは宇宙人や超能力者やヒーロー的活躍に憧れていたものの、高校入学時にそういったものを「ガキの夢」として切り捨てました。その代わりに志向したのが「普通であること」なのです。それは以下のような、誰に向けているのか分からない、おそらく自分にも向けた問いによく表れています。

 でも人生ってそんなもんだろ?(注117)

 物理法則万歳! おかげで俺たちは平穏無事に暮らしていられる。ハルヒには悪いがな。
 そう思った。
 普通だろ?(注118)

 そして先の発言に見られるように、この時のキョンには「普通の高校生は彼氏彼女を作って遊ぼうとするものだ」という概念がありました。つまり恋愛そのものに積極的だったというよりは、高校生になった以上ガキの夢からは卒業しないといけないし、そのためには普通であらねばならないし、普通であるためには恋愛に前向きであらねばならない、という考えがあったらしいのです。
 
 キョンはその後ハルヒと共に新世界創造を回避して帰還しました。それが彼にとってどういう価値をもたらしたかといえば、「ぐあ、今すぐ首つりてえ!」(注119)という発言に顕著なように、「彼女を作るような普通の高校生になれた」ではなく、どちらかといえば「ハルヒと過ごす、普通志向じゃない高校生活(注120)」だと思われます。そしてキョンは普通志向でなくなったことで恋愛志向である必要もなくなったのです。
 そこから考えると、十二月時点で「高一の分際で真面目に愛を語ろうなんざ」と思ってる方がキョン本来の考えだったのだと思われます。長門や佐々木の想いに対する朴念仁っぷりも、彼自身元々それほど恋愛志向ではないゆえだと思われます。
 
 キョンが普通志向でない高校生活を手に入れたことは、裏を返せば恋愛に関しては一度後退した、とも言えます。『憂鬱』以降のキョンがハルヒに対する恋愛感情を度々白々しいまでに否定するのは、一度恋愛をリタイアし「あっちではなくこっちを選んだ」という風に思っていることの表れでしょう。また、もしかしたらそれほど仲良くなる前のハルヒの「恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ」(注121)という発言を真に受けていることも影響しているのかもしれません。
 普通志向でないことと恋愛志向とが択一である必要は本来ないと思うのですが、彼はどちらかだと考えているように見受けられます(注122)。
 
 以上、キョンの恋愛観が顕著に表れている一文について触れましたが、本作には他にも彼について注目に値する描写があります。せっかくなのでもう少し見てみましょう。
 キョンは長門が中河の告白に「しかし応じることはできない」(注123)と答えたことに安堵し、「早い話が俺は長門が中河でも誰でもいい、他の男と睦まじげに歩いている姿など見たくはないのである。」(注124)「朝比奈さんにしろ長門にしろ、余計な男が俺たちの間に割り込んでくるのは率直に言ってムカが入る。気にくわない」(注125)と述べています。
 私は初めてこの箇所を読んだ時、「うわコイツ長門を『消失』でコテンパンに振った数日後に独占欲を発揮してやがる一番ヤベえタイプだな」と思ったのですが、彼自身は自分の二人に対する独占欲を、恋愛感情の萌芽ではない他の何かであるとして納得したようです。
 キョンは『消失』で一度SOS団の仲間を失った直後ですし、これも裏を返せばそれだけSOS団というユニットを仲間として大事に思うようになったということなのでしょう。
 
 もう一つ、キョンの恋愛感情について本作にはシリーズの中でも珍しい記述があります。それは「ついでに恋愛感情とスケベ心の相違点について考察を深めたあげく、これぞという結論が天啓のように閃いた」(注126)という一文です。
 キョンにも恋愛感情について考える夜があるという点も珍しいですし、それをスケベ心と関連させている点も興味深いです。キョンの言うスケベ心がどの程度のどんなことを指すのかは不明ですが、この時彼がどんな結論を得たのか、ぜひ改めて語る機会を設けていただきたいものです(余談)。

(注112) 『動揺』、百三頁
(注113) 『憂鬱』、二十二頁
(注114) 同、百七十五頁
(注115) 同、二百十二頁
(注116) 『憂鬱』、百七十五頁
(注117) 同、三十七頁
(注118) 同、四十三頁
(注119) 同、二百九十頁
(注120) この場合の「普通志向でない高校生活」とは、日常が非日常的だという意味ではなく、普通であることに強迫観念のない高校生活、と捉えていただきたい。
(注121) 『憂鬱』、百七十五頁
(注122) 余談だが、二十一世紀になってアニメや漫画などの文化が市民権を得る以前の一時期は、何かに対してオタク的であることと普通の人っぽく恋愛志向であることは二律背反であった。キョンがそういった時代の価値観を有していると考えれば、彼の思考には一定の妥当性が見いだせる。
(注123) 『動揺』、百二十一頁
(注124) 同、百二十二頁
(注125) 同、百二十三頁
(注126) 同、百四十頁

〈各エピソード考察『ヒトメボレLOVER』試し読みはここまで〉

猫はどこに行った?

新作を書かせる程度の超能力

 『猫はどこに行った?』は『動揺』のために新たに書き下ろされた新作短編です。谷川先生は巻末コメントにて本作について以下のように解説しています。
 
 このような話を考えるハメになったのも「雪山症候群」で古泉が猫がどうとか言っていたせいです。少しは考える身にもなって欲しいとしみじみ思いました。なんとなく、ハルヒと鶴屋さんがメインのような気がします。
 
 この説明の通り、『暴走』に収録の『雪山』の時点で、推理劇のトリックのためにという目的でシャミセンをキョンに連れてきてもらっています(というか、よく考えるとこの説明の時点で古泉くんはトリックのネタバレをしてしまっています。この時の彼とのやり取りを覚えていれば、キョンは容易に謎を解けたような気が……)。執筆理由を古泉くんのこの発言のせいにされていますが、『雪山』を書いている時点で谷川先生は「冬合宿の謎解きの話を書くときは猫を使おう」と思っていたのだと思われます。
 また、夏合宿での推理劇が本体だった『孤島』との比較で言えば『雪山』の内容は番狂わせですので、『雪山』と『猫どこ』を足すことで冬の合宿編が完成する、という趣もあります。
 
 ほぼ冬合宿の謎解きパートにフォーカスしたような作品ですので、登場人物の内面や関係性の変化は正直なところあまり描かれていない印象です。ですがもちろん描写が皆無でもありませんので、ここではそういった部分に特に注目しようと思います。分量的にはインターミッション程度のものになる点はご容赦ください。
 なお、古泉くんの用意した謎の解説などは行いません。トリックがよく分からなかった方は、みくるちゃんのようにメモ帳に線を引きながら考察するのもいいと思います。
 いきなり余談になってしまいますが、作品考察においても作中の出来事を時系列に整理することは有効です。本非公式考察本シリーズの執筆においても「涼宮ハルヒ」シリーズ各巻・各シーンの出来事を抜き出し、時系列順に並べた表を作成した上で考察を行っています。それによって気付けることも多いので、興味のある方はぜひチャレンジしてみてください。

ナイスガッツを持ちし者

 まずキョンについて。
 物語冒頭、キョンは『雪山』にて彼らを襲った謎の存在に対して「アレを仕組んだ何だか解らん野郎には一言ザマミロと言ってやりたい。長門だけではダメだとしても、そこに俺と古泉――朝比奈さん(小)は微妙だが――あたりが加わればなんとかなるんだ。」(注186)と内心で啖呵を切っています。『消失』以降のキョンらしくSOS団としての結束が感じられる一方、みくるちゃんに対する認識は相変わらずです。キョンが彼女の存在のありがたさを実感するのはもう少しだけ後のことになります。むしろこの時点でこういった認識を露わにしていること自体が伏線であるとも言えそうです。
 
 ハルヒに関しては、『雪山』で倒れた長門を引き続き心配しまくる姿が印象的です。
 なお、一方の長門も、話を合わせて寝てればいいように思いますが「なんともない」(注187)と抵抗したりしていたようです。予定通りスキーをしたかったのでしょうか? もしくは、全員の予定を自分の都合で変えさせることに抵抗があったのかもしれません。
 ハルヒと古泉くんとの関係では二人で一緒にスゴロクを作っていたという発言がありました(注188)。キョンが「謎の紙」(注189)と言っている事から、彼はその存在を知らなかったようです。二人はいつそんなものを作ったのでしょう?(注190)
 それがいつにせよ、キョンが団員たちの行動を全て知っているわけではなく、彼や読者の知らないところで団員同士の交流もあり得るということの一例になりそうです。
 
 みくるちゃんについては、先述の通り推理劇が終わった後もメモ帳に図を書きながらトリックの構造を自分なりに理解しようとしている姿が印象的です。彼女は映画撮影の際なども相当頑張っていましたが、反面ハルヒの指示に従うよう命じられているからと思えなくもない描写でした。一方今回はハルヒが解き終わった謎にいつまでもこだわる任務上の必要性はないでしょうから、これはあくまで自分の興味関心で解こうとしているのだと考えられます。
 彼女の苦境に負けずに挑もうとするガッツはこういうところにもさり気なく描かれているように思えます。

(注186) 『動揺』、百八十八頁
(注187) 同、百八十九頁
(注188) 「あたしと古泉くんで作ったのよ」(同、二百六頁)
(注189) 同上
(注190) この時期のSOS団の活動はかなり具体的に描かれており、ほぼ『ヒトメボレ』でハルヒとみくると古泉がキョンと別行動をとった後か、合宿の前日のどちらかに絞られる。ただし本書における考察の主旨から外れるので詳細は割愛する。

〈各エピソード考察『猫はどこに行った?』試し読みはここまで〉

朝比奈みくるの憂鬱

元ネタを明かすのが
オマージュです

 『朝比奈みくるの憂鬱』は「ザ・スニーカー」二〇〇五年二月号に初めて掲載されました。表紙はアニメ化が決まった『トリニティ・ブラッド』(故・吉田直)が飾っていますが、『ハルヒ』も巻頭見開きでカラーイラスト(『動揺』巻頭の見開き口絵の三つ目のもの)が掲載され、小説も比較的前の方である三十八頁から載っています。
 ハルヒに関する特集は他にはありませんが、「スニーカータイムズBOOKレビュー」という企画の中で「涼宮ハルヒ2004を彩った女の子」として長門がイラスト入りで紹介されています。この頃、既に『消失』『暴走』辺りまで刊行されていたので、長門の人気も顕著になっていたようです。逆に言えばそれ以前はどちらかといえばハルヒやみくるちゃんの方が特集やイラストでフィーチャーされる機会が多かった印象です。
 もう一つ、「クリエイターズ・ナウSPECIAL」というコーナーでは、「二〇〇四年中に読んで見聞きして遊んだ、本・映像物・ゲーム等で印象に残ったものを教えてください。」という問いに対し、谷川先生が幼少期からファンである漫画家・竹本泉先生のマンガ全部、と、「二〇〇五年の予定や抱負、または宣伝したいものがあれば教えてください。」という問いに「ハルヒたちが何するか決まっているところまでを書いて決まってないところは考える」という趣旨の回答をしています。どうやら先生の中では以降の物語も骨子は決まっていた、もしくは決まっているようです。
 
 余談ですが、谷川先生が右記のコメント内で触れていた竹本泉先生が「コミックビーム」に連載していた短編漫画『よみきり?もの』の第一巻(二〇〇一年一〇月刊行)に収録された『みちのまんなかに岩』という短編に「涼宮わひろ」という快活な女子高生が主人公として登場します。また相方となる「上岡くん」は見た目が古泉くん似でツッコミ体質はキョン似という男の子であり、両者ともどことなくハルヒの原型を感じさせます。
 谷川先生は雑誌『Quick Japan Vol.66』にて『うる星やつら』との類似性を指摘された文脈で「『ハルヒ』は……特定の作品を意識して書いたわけではないんですけどね。」としつつも、「見たり聞いたりしたものにはたいてい影響を受けちゃうんで。あと好きな作品のフレーズを引っ張ってきたりは、よくしますね。僕はこれに影響を受けたんだと明示したい。」と答えています。
 涼宮という人物名に関しては二〇〇一年発売の成人向けPCゲーム『君が望む永遠』のヒロイン涼宮遙や涼宮茜の影響が指摘されることがあります。ただ、インタビューでも作中でも『君が望む永遠』から受けた影響は明示されていない一方、谷川先生は竹本泉作品の愛読者であることは度々述べていますし作風も比較的似ていることから、どちらの影響かといえばこちらの影響の方が大きいように感じます。
 
 さらに余談ですが、長門の元ネタではないかという意味で関連付けられがちなアニメ『エヴァンゲリオン』シリーズの綾波レイも、谷川先生が影響を明示したことは私の知る範囲ではありません(もしそういった情報がありましたらぜひお知らせください)。
 一方、これも谷川先生が中学生時代に愛好していたと明言している笹本祐一氏の『妖精作戦』シリーズの一作『カーニバル・ナイト』に登場した和紗結希(かずさ・ゆき)が長門のオマージュ元であることを作者自ら明かしています(注205)。無口、無表情、神秘的という設定だけでなく名前もそのまんまですし、なにしろ作者が多感な中学生時代に影響を受けた作品の登場人物ですから、長門の直系のご先祖様はこちらだとみていいでしょう。

(注205) 「私事で恐縮ですが、拙作『涼宮ハルヒの憂鬱』から始まる一連のシリーズに登場する長門有希というキャラクターが、この和紗結希へのあからさまなオマージュであることは言うまでもありません。」(『妖精作戦PARTⅢ カーニバル・ナイト』(二〇十二年刊行創元SF文庫版)、二百九十八頁)

意外と違う?
雑誌掲載バージョン

 雑誌掲載時の『朝比奈みくるの憂鬱』は、文庫掲載時のバージョンと細部が微妙に異なります。
 一番大きく修正されているのは文庫における「そして、別の歴史に変化していた世界を元に戻しに行くこともできた――。」(注206)から次の頁の「どのくらい簡単かというと、」(注207)までの、『陰謀』冒頭で十二月一八日の早朝に行った際のことを説明する約一頁分の記述です。これはおそらく『みくるの憂鬱』発表時(掲載雑誌が書店に並んだのは二〇〇四年末か二〇〇五年の初め)にはまだ『陰謀』(二〇〇五年九月刊行)は世に出ていなかったため、『動揺』(二〇〇五年四月刊行)の執筆段階で内容を当時最新のものに寄せたためだと思われます。つまり『みくるの冒険』は発表当時、後に『陰謀』で具体的に明かされる『消失』のクライマックスでの出来事を部分的に先出しした作品でもあった、ということになります。
 
 雑誌掲載時の内容はディティールの修正というよりは文章自体のレベルで結構違うのですが、たとえば文庫版で「しかし俺や長門と違って朝比奈さんはそこに未来の自分がいたことに気づけなかった。」(注208)としている部分が、雑誌掲載時は「そこで俺は虫の息の自分と、長門は改変された自分と、朝比奈さんは朝比奈さん(大)と出会った。それを朝比奈さんは覚えていない。」(注209)となっています。「それを朝比奈さんは覚えていない。」にかかった傍点の印象も相まって、かなりニュアンスが異なるというか、みくるちゃんが記憶操作されたようにも思える描写になっています。
 他には、一番最後の段落が

 で。
 
 その後に起こったことは、すべて想像にお任せする。
 まあ、だいたい想像通りだと思うんでね。(注210)

 と、(おそらく頁と文字数の都合で)かなりサクッと終わっていたりもします。
 全体的にキョンの口語体かつ一人称の色彩が強く、特にみくるちゃんとの待ち合わせに向かうまでのウキウキ感が雑誌の方が強めな印象です。
 
 他にも文庫収録にあたって修正されている個所は多いのですが、基本的には同じ話ですので読み比べでもしないと多くの人が気付かないであろう程度の違いしかありません。そのため本書では基本的に雑誌掲載版と文庫版はバージョン違いの同じものとして扱います。
 ただ、雑誌掲載版から文庫収録にあたって修正された箇所は、それが改められたということはそちらの方がより正しい描写だと考えられます。そのため、人物描写に関する違いについて、主だったところをいくつか取り上げます。
 
 みくるちゃん(小)の一人称について、雑誌から文庫掲載にあたって一部「わたし」だったところが「あたし」に変更されています。『憂鬱』の時から基本的にみくるちゃん(小)の一人称は「あたし」で、(大)の方が「わたし」ですから、それに統一したものと思われます。別件ですが、ここでわざわざ修正を施しているということは、スニーカー文庫版だけでなく角川文庫版でも修正されていない『憂鬱』ラストの長門の「あたしがさせない」(注211)はやはり一人称の表記ゆれの類ではない、という思いが一層強くなります。
 また、二人分のお茶代を自分で出す旨主張したセリフである「いいんです。今日はあたしのお願いで来てもらったんだから。ここもあたしが」(注212)の最後の一言が、雑誌掲載時は「あたしが出します」(注213)と言い切る形でした。こういう時に急にビシッと言いきらないのがみくるちゃん、ということなのかもしれません(雑誌掲載時の言いきるスタイルのみくるちゃんも個人的には好きですが)。
 
 キョンに関しては、前述の通り雑誌掲載時は口語的で主観的だったのが、文庫版では総じて若干客観的に修正されている印象です。例えば以下のような一文です。

 メイド装束の朝比奈さんが親の後ろを歩く子猫のようについてくる。(注214)

 文庫版のこの一文、雑誌掲載時はこうでした。

 メイド装束の朝比奈さんが親の後ろを歩く子猫のようについてくる。どう見ても可愛い。(注215)

 この通り、すごく主観的です。
 また、少し趣旨の異なる例ですが、みくるちゃんに対する表現が二カ所ほど文庫掲載時に改められていたのが印象でした。
 一つ目は、「俺は彼女のことを単なる幼顔で胸の大きい弄られキャラだと思っていた。」(注216)という文庫版の一文が、雑誌掲載時は「俺は彼女のことを単なるロリ顔で巨乳の弄られキャラだと思っていた。」(注217)となっていました。
 「涼宮ハルヒ」シリーズではキョン以外も含めて他人の容姿をからかう発言は男女問わずかなり抑制されている印象なので、それに伴った修正のように感じられます(なお、『憂鬱』の時点でハルヒがみくるちゃんのことを「ロリ顔で巨乳」(注218)と言っていますが、彼女の発言意図としてはからかいというよりむしろ賛辞でした)。またメタ的には、谷川先生は『ハルヒ』を書く上で気を付けていることとして「僕が意識しているのは、今現在流行ってるものは書かないようにしようということですね。来年になったらもうすでに消えている言葉、ってあるじゃないですか。そういうのは出来る限り使わないでおこうと。」(注219)と答えています。「ロリ顔で巨乳」という形容は普遍的でないと思い、改めたのかもしれません。
 
 もう一点、「突然泣き出したふわふわな上級生に」(注220)の部分は、雑誌掲載時は「突然泣き出したふわふわ娘に」(注221)でした。みくるちゃんを「雰囲気がふわふわした先輩」とするか「頭ふわふわな女」と捉えるかで評価はほぼ真逆になりますから、前者の印象になるよう修正を施したのだと思われます。ただ、キョンは彼女をして後者のように描写するケースも割とあるのですが、それについては『精読・涼宮ハルヒの陰謀』を書く際に詳しく触れたいと思います。
 
 ところで、作者は本作について下記のように述べています。

 時系列的に、次の長編は今作からダイレクトに繋がっていることになりそうです。それまで雑誌掲載分と書き下ろし長編の連続性にそれなりに四苦八苦していたため、これで今書いてる長編がなおいっそう書きやすくなってくれる効果があれば幸いなことなのですが、重要なのは読みやすくなっているかどうかであって、またそれ以外の結果を僕はまったく望みません。(注222)

 基本的には、『みくるの憂鬱』は『陰謀』の前日談ですよ、これによって『陰謀』との接続が自然になり読みやすくなりますよ、という内容のように思われます。
 ただ、雑誌掲載分と書き下ろし長編=文庫の内容の連続性の苦労に関するお話は、ここまで挙げてきた短編の文庫掲載にあたっての各種修正にも通じる話のように感じられます。ここで修正された箇所を含む様々な描写の積み重ねによってキョンやみくるちゃんといった登場人物のイメージは醸成されており、人物描写のブレが減ることで物語も読みやすくなっていると考えられるからです。
 個人的に、キョンは巨乳という概念を示したい時、もうちょっと品のいい言葉を選びそうな印象だったので、文庫掲載時に修正が施されている事実になんとなくホッとしました(なお、一応シリーズ全文を確認しましたが、先のハルヒの発言以外に巨乳という言葉は使われていませんでした)。

(注206) 『動揺』、二百八十五頁
(注207) 同、二百八十六頁
(注208) 同、二百八十五、六頁
(注209) 「ザ・スニーカー」二〇〇五年二月号、五十二頁
(注210) 同、五十六頁
(注211) 『憂鬱』、二百九十五頁
(注212) 『動揺』、二百六十一頁
(注213) 「ザ・スニーカー」二〇〇五年二月号、四十五頁
(注214) 『動揺』、二百五十頁
(注215) 「ザ・スニーカー」二〇〇五年二月号、四十一頁
(注216) 『動揺』、二百六十四頁
(注217) 「ザ・スニーカー」二〇〇五年二月号、四十六頁
(注218) 『憂鬱』、六十一頁
(注219) 「ザ・スニーカー」二〇〇四年十二月、十二頁
(注220) 『動揺』、二百七十六頁
(注221) 「ザ・スニーカー」二〇〇五年二月号、四十九頁
(注222) 『動揺』、三百頁

〈各エピソード考察『朝比奈みくるの憂鬱』試し読みはここまで〉


 以上、全76ページのうち『はじめに』『イントロダクション』と、『各エピソード考察』の一部を抜粋してご紹介しました。

 続きは2023/11/11発行予定の非公式考察本『精読・涼宮ハルヒの動揺 ~非公式考察本シリーズ vol.6~』でお楽しみください!

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