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さようなら、私の故郷

3年前に飛騨にある実家の家終いをしました。その後母が1人飛騨に住み続けていたのですが、母も70歳を過ぎ、1人で住み続けるのが不安ということで、次の5月に姉夫婦が住んでいる群馬に引越す事になりました。

実家を処分してからは、時々母の様子を見るために飛騨に帰っていたので帰る家は無くなったものの、まだ完全に故郷を失った感じはしていなかったのです。そのため、次の5月に母が引越す時が故郷との本当のお別れになると思います。

田舎の土地、建物、山林

実家は元々農家で、分家の家だったので本家ほど広い土地や山林はなかったのですが、それでもやはりそれなりにあるものはあって、しかもバブル崩壊以前に買った遠隔地にある山林もありました。本来は長男である私が管理するなりしなければならないのですが、京都に暮らしているため遠隔地の土地や建物、山林の管理など無理ですし、もちろん母1人でも難しい。特に飛騨地方は雪が降るので、1人暮らしの母が冬場の雪かき、屋根の雪下ろしをするのは厳しく、実家の不動産関連は全て売却もしくは譲渡する事になりました。

時代と共に変わる価値

私は小さい頃から長男として、「先祖から守ってきた土地や山を守らないかんよ。」と言われて育ってきました。その頃はまだ世の中が上向きに成長すると皆が幻想を抱けた時代だったので、祖父が半分騙されたような値段で車で1時間ほど離れた所に山を買ったりしていました。当時はそれほど山を買いたくても売ってくれる所が無かったのです。しかも、スギやヒノキを植林すれば何十年後かには家を建て替えるくらいの資金になると素朴に考えられていて、将来の投資として山を買ったり植林をするのが当たり前に行われていました。しかし、その後安い外国産の材木を使うのが当たり前になり、国産木材は切り出して運ぶだけで人件費等のコストがかかり過ぎて逆に赤字になる状況になりました。

手がかかりコストにしかならない山林は、間伐等で手入れをされる事もなく各地で荒廃し、金に目が眩んで植えまくったスギやヒノキのおかげで花粉症が国民病のようになり、近年では温暖化に伴う規格外の台風の影響も相まって土砂崩れ等の災害も多発しています。

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台風で荒れ果てた京都市内の山林。これで登山道です。アスレチックのように木を跨いだり潜ったりしないと進めない。

我が家の所有していた山林も例外ではなく、木は植えたまま放置されており、管理しなければ荒れるばかりで場合によってはそこで起きた土砂崩れ等の責任や整備の必要性が付き纏います。また、田畑においても耕作放棄地は草だらけの見た目のみならず、害虫を発生させたり、水害時に端から崩れる危険性もあるのでできればそのままにしたくないのです。

自分達で何とかするしかない

我が家の土地建物の売却に関しては、親族皆賛成と言うわけではありませんでした。親戚には今後管理し続ける事の金銭的、労力的厳しさを伝え、可能であれば引き取ってくれても構わないと相談しましたが、管理はできないとの事で、手放す事を渋々承諾されました。しかし、親族、特に我が家が実家であった叔母たちにとっては感情的に受け入れ難い現実であり、それに踏み切った我々家族についても受け入れ難い存在になってしまったようで、どんどん疎遠になっていきました。

叔母達からは私が実家に戻らない状態でも維持して欲しかったようですが、これまで母1人で住むだけでも築100年の住宅は所々修理が必要となっており、遠隔地から住まない住居や土地を維持するのは現実離れしています。具体的な金額は知りませんが、母が言うには例えば雪で屋根が壊れたことで修理した金額など、修繕に充ててきた金額を合わせたら小さい家が買えるくらいだそうです。冷静に考えて、不便で手のかかる旧家を維持するなんて余程の余裕がない限りできないのです。

そのような状況で、母がまだ元気なうちに手を打つしか無いと焦る気持ちがありました。このままでは大きな廃墟と耕作放棄地、荒れ放題の山林ができて、そのためのコストも際限なく降り掛かってしまうと。

母の引きの強さ

親族に頼る事も出来なかった私達家族は、旧家専門の不動産屋さん等業者にも当たったのですが、結局全ての売却、譲渡を成功させたのは母の力でした。母には特別人脈がある訳では無いのですが、たまたまバイトに行っていたデイサービスや、書道のお稽古事の友人等に事情を話す事でほとんどの土地建物の売却を取り次いだのです。しかも、それは古い付き合いの人ではなく、ほとんどが最近知り合った方達ばかりでした。

山林なんかは、最近キャンプブームで一部の人の間では購入する話なんかは聞きますが、それは稀なケースでほとんど売買の動きは無いそうです。そのためほとんど諦めていたのですが、母の友人の子供さん夫婦が若くして農業をやっており、山に興味を持って頂いたのがきっかけでした。ちなみに、このご家族には家で捨てる予定だった鯉のぼりや雛人形、父の遺品の山道具等思い出の物をことごとく喜んで引き取ってもらった経緯があります。これは本当にご縁としか言いようが無かったです。

母は我が家に嫁いで来て、父が結局63歳で他界した事で嫁ぎ先の財産管理を任された形になったのを、今回のような形で踏み切ったのですから、それは相当な覚悟だったと思います。それは親族や隣近所から色々言われる事でもあったので、本来なら私がその役回りをしなければならないので申し訳ない気持ちもあります。

母は地域の女性会(昔は婦人会と言いました。地域の主婦の寄り合い会のような団体)の形骸化の中、持ち回りの会長にさせられた年に、参加の為の参加しか皆していない状況を見て会を解散させたと言っていました。普通は周りの目を気にして、任期が過ぎるのを待ったり、保守的な人から反発を受けそうな事を避けると思うのですが、母は違ったようです。そのエピソードを聞いても、なかなかの決断力の持ち主(空気を読まない強さ)だと思います。

そうした母の決断力や、新たな人との関係性で人を引き寄せる力は本当に真似したいですし、尊敬するところです。なかなかできる事では無いですが。

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処分直前の我が家。右奥に大きな仏壇がありました。これも縁のある方に引き取って頂けました。

故郷とのお別れを前に

母のマンションの退去である5月を前に、どのような気持ちで臨むのか未だにはっきりしていません。

私の夜みる夢の中では、最近の内容はあまり出て来ず、実家や故郷の中にいる夢をよく見ます。時には亡くなった父や祖母が出てきます。目が覚めるまで、故郷が当たり前にある感覚があって、起きると「そうか。もう無いんだった。」と喪失を再認識するのです。

物質的には無くなったものも、少なくとも私が生きている間は記憶にあり続けるので、最後の時間をしっかり見届けようと思います。














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