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石と温泉の旅 吉備編

コロナの状況が落ち着いた2021年11月前半、かねてから行きたかった岡山の奥津温泉に旅に出かけました。もちろん温泉だけではなく、今回も石巡りが目的の一つでもあります。奥津温泉は岡山から車で1時間半ほどの山間の温泉地で、大学時代の友人との旅行で島根、鳥取と巡った後に立ち寄ったことのある温泉でした。しかし、私自身温泉の魅力に気づく前の若い頃だったので、ボロボロの昭和の風情の立ち寄り温泉に入った記憶はありますが、しっかり温泉を堪能した記憶が無いのが後に心残りになっていました。また、自分の興味のある旧石器時代の恩原遺跡があるのも知っていたので、いつかはどちらも行きたいと思い続けていた場所だったのです。ただし、奥津温泉周辺は交通の便が悪く、電車やバスでは時間がかかり、恩原遺跡は公共交通機関では行けない山奥にあるため、なかなか実行できずにいました。

奥津温泉を目指して

長らく奥津温泉への旅行予定を温めてきましたが、今回の久しぶりの旅行はいつもの電車とバスではなく、思い切って岡山駅からレンタカーでの旅に決めました。これでフットワークが効くようになったので、奥津温泉までの道中の間にこれまで行きたかった遺跡や神社を巡ることにして1泊2日の予定で岡山を目指します。

朝新幹線で岡山に到着し、早速レンタカーを借りて、そのまま一旦旧石器時代の遺跡のある鷲羽山まで車で向かいました。以前来た時は児島駅からバスで来たのですが、今回は自家用車で巡ったのでまた風景も違って見えて、鷲羽山周辺の地形を立体的に感じることができました。鷲羽山では少し散策している間に雨が断続的に降り出したので、東屋で駅弁を食べて早々と次の目的地の楯築遺跡へ向かいます。

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久しぶりの鷲羽山。雲行きが怪しく、その後降り出しました。

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前来た時は気付かなかったですが、石垣にサヌカイトが埋め込まれていました。香川から人為的に持って来た物でしょうから、工事の際意図的に嵌め込まれたんでしょうか。

楯築遺跡へ

楯築たてつき遺跡は吉備地方にある弥生時代の墳丘墓です。弥生時代なので古墳ではないのですが、この時代の墳丘墓にしては類例の無い大きさと、何と言っても花崗岩の巨石が墳丘墓の真上に直立して並んでいるものは全国でも珍しいものです。しかも弧帯文石こたいもんせき(旋帯文石とも言います)という石を加工して特殊な文様を刻み込んだ異形の石製品があり、元々墳丘墓の上には神社があってその御神体として祀られていたとの事。邪馬台国や卑弥呼の研究をする上でも重要なこの遺跡は以前から気になっていましたから、念願が叶いました。

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楯築遺跡は王墓の丘史跡公園という、古墳が点在する史跡公園の一角にひっそりありました。公園内には石室が剥き出しになった古墳が点在しています。着いて暫くしたら雨は止み始めました。

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明治の神社合祀政策で、他の神社と合併して今は神社では無くなっていますが、鳥居は残っています。ここを登った丘陵状の部分が墳丘墓で、頂上の平坦部に巨石が立った状態で並んでいます。

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それぞれ形の違った巨石達が出迎えてくれます。間違いなく人為的に並べられた物ですが、その意図は謎のまま。スピリチュアル系でなくともその異様さに圧倒されます。古墳には無いプリミティブな迫力!

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左手前の祠は戦後に弧帯文石を納めるために作られた後世のものです。

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色々な巨石。加工しているようには見えず、古墳とは違った荒々しさを感じます。そして、岩が立っているのもポイント。宇宙に向かってそそり立つ感じです。こんなとんでもない遺物が間近で見られるなんて他に無いです。自分がいる間来訪者が無かったので、もっと評価されて良いのではと思いますが、評価されてしまったらこんなに近くで見られないかも知れません。神秘的な静けさのある聖域でした。

楯築遺跡は一部給水塔の工事により破壊されていますが、何とか遺跡中心部は守られ、発掘調査も行われています。二ヶ所から棺が発見されており、主たる埋葬者の方からは翡翠の勾玉や碧玉の管玉が発見され、棺には当時貴重な朱が敷き詰められていました。朱は水銀の化合物である硫化水銀の事で、辰砂しんしゃと言われる鉱物です。埋葬に用いるのは朱が血の色に通じ、生命の復活を願う等の色々な解釈があるようですが、32kgもの他に類を見ないほど大量の朱が用いられていたことは、楯築遺跡の呪術性と特異性を示しています。

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楯築遺跡の復元図。2つの突出部が少しずれた配置で、前方後円墳とはまた違った不思議な形。復元図は福本明さん著作の「吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」(新泉社 2007)より。

弧帯文石(旋帯文石)

楯築遺跡の出土物の特異さは、弧帯文石をはじめとする出土物にも現れてます。埴輪の出現前に作られた祭祀用の土器である特殊器台や特殊壺が出土していたり、発掘では火を受けてバラバラに砕かれた2つ目の弧帯文石も見つかり、何故火を受けバラバラに砕かれたのか不明ですが、この地域特有の何らかの特殊な儀礼が行われていたのは確かです。

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祭祀用の特殊器台と同様の文様が石に刻まれています。人の顔が一ヶ所形作られており、パッと見ただけで「何だコレは?」と思う様な異形の物体。しかも土器ではなくわざわざ石で作る手間。謎だらけです。国の重要文化財です。【画像は倉敷市HPより】

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弧帯文石は収蔵庫に収められていますが、小窓から見るため、暗くて見え難いです。あと、肝心なお顔が見えません。

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スマホカメラの機能を使って何とかこの画像です。

岩倉神社

楯築遺跡を後にして、桃太郎の鬼退治伝説の吉備津神社へ向かおうとしていました。カーナビに従って、何故かマイナーな細い道のルートを案内されて走っていると、目に留まったのが、明らかに異様な巨石がひしめき合っている神社を発見!事前情報なく訪れたのですが、ここがまた凄い穴場のパワースポットでした。

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周囲が花崗岩の地質という感じでは無いのに、急に平坦な土地にこんな巨石群が現れるのです。周囲の耕作地で邪魔になった巨石を集めた場所という説もあるようですが、いつからこの形になったのか不明のようで、とにかく古いものに違いないでしょうし、謎に包まれているのが一層神秘的です。

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境内はとにかく岩岩岩。岩だらけです。これだけの岩の塊があれば人は自然への畏怖の念と、神様を感じたのかも知れません。しかし、観光地ではないため誰もいません。人が動かせそうにない巨石も多く、「何故こんな場所に?不思議だなー。」とずっと見ていても飽きません。楯築遺跡の巨石によく似ているので、同じ産地のもののように思えて、色々想像が巡ります。石に惹かれて旅行に行くと、このような場所に巡り合うことがあるんですね。ご縁ですね。

吉備津神社へ

岩倉神社から有名な吉備津神社へは車で15分程と、楯築遺跡からも近い位置関係となります。吉備は本当に古代の重要遺跡が密集していて、しかも桃太郎の起源とされてる温羅うら伝説に基づいた地名や神社が沢山あり、神話が今でも息付いてる歴史深い場所です。温羅は百済から来た有力者で、鬼ノ城という城を築いて略奪を繰り返したといいます。朝廷は孝霊天皇の皇子五十狭芹彦命いさせりひこのみことを派遣し、温羅と戦います。温羅との戦いの中で防御のために築いた石の楯が、楯築遺跡とされる等、様々な伝説とその物語にまつわる地名が残っているのが興味深いです。温羅は戦いの後に捕らえられ、首をはねられますが、首は髑髏になっても吉備津彦神社の釜殿の地下深くでうなり続けたといいます。その後、温羅は命の夢枕に立ち、吉凶を占う方法を伝えます。そこから現在吉備津神社で行われている鳴釜神事が始まったとされます。

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吉備神社は荘厳な佇まいでした。どっしりしています。秋らしくイチョウが映えていました。

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長く続く回廊がまた雰囲気があって良いです。傾斜が少しあるのが、またどこまで続くか分からなくしていて神秘的な雰囲気です。

吉備津の「津」という意味は足守川の河口にできた湊を意味しています。川の作り出した肥沃な農地と交易に必要な湊、そしてそれらを囲む様に丘陵上や山の上に古代の遺跡が配置されているのが見て取れて、今は田園となっている風景の中に古代のムラや湊がイメージできる気がしました。そして、この地の古代の有力者は、楯築遺跡の様な眺めの良い場所で人々の暮らしているムラを見渡せる場所にお墓を作ったのでしょう。また、吉備津神社も高台にあって人々の暮らしを見守っているようでした。

吉備津神社を後にして、いよいよ奥津温泉へ向かいました。色々スケジュールを詰め込んだこともあり、奥津に着いた頃には辺りは真っ暗でした。僕の生まれ故郷もド田舎ですが、途中高速道路を進む毎に民家が少なくなり、灯りがまばらになっていき、かなりの山深さと若干の心細さを感じました。本当に山奥に来たんだと感じるような温泉地。これを望んでたのです。

念願の奥津温泉と、恩原遺跡の詳細については後編の奥津編に続きます。




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