「多様性のある組織」と「愛」について
最近、ツイッターでネガティブメンバーに対するマネジメントについて書かれた記事があり、色々思うことがあったので書きなぐってみました。
多様性のある組織はこの世でもっとも強い組織であるが
「多様性を破壊するような多様性は、多様性のある組織で認められるか」
っていう問題に対して、閾値もしくはそんな感じの線を置いた瞬間に
必ず排除される要素が出てくる
そうするとその排除された要素は、多様性として認められず、
その多様性を認めなかった組織自体に多様性が無いとも言える
それを続けた結果その組織に多様性なんか無い、
もはや最初から多様性なんてものは無かった、なんて見方ができる。
それは夫婦あるいは家族という最小単位の社会からマクロ視点での社会全てに同じことが言え、必ず排除される存在が出てくる
では、その要素はこのまま排除されて良いか?
そこがネガティブマネジメントの難しいところだなと思います。
そして、この問いの答えは「ルール」か「文化」によって決まると思う。
ルールの場合、
例えば、日本には死刑という罰則がある。
100%明確な基準はないものの、法律というルールに従ってこの人はこの世にいけない人として排除される。
組織で見れば、会社の規則というものがある。
社会人としてだけでなくその会社の一員として守らなければならないルールといいものもある。
そこから逸脱した悪影響を及ぼす行動をとり続ければクビになったりする。
一方、文化の場合
学校のクラスで例えると、そのクラスに馴染めないもしくは一風変わった風貌だったり立ち振る舞いだと、いじめの対象になったり、自らそこから逃げる形をとる
つまりは、多様性から排除される要素が生まれるのはルールと文化が大きく関わる。
もちろん、法の下で人間は平等なのでそれが前提であることは承知している。
ルールを破った上での排除はまだいいとして、
この社会で問題になっているのは文化による多様性の排除じゃないかなと
「多様性は大事!」とか言いながら
多様性があると勘違いして似たような人たちで固まるのはなんとも居心地が良くて、良い世界なのだろう
そんな中に多様性なんてあるのか否かはわからない
ただ一つ言えるのは、多様性は 愛 がなければ構築できないということ
言い換えると、自分と相反する要素・排除したくなる要素 でも 無条件 に受け入れる 利他 のスタンスじゃ無いと絶対にできない。
他人の属性・バックグラウンド・境遇・思考などが自分と違うのは至極当たり前で、もちろん性格や考え方・資質などの合う合わないは大いにある。それらを受け入れるのは、はっきり言って不快なことなのかもしれない。
しかし、人が一人じゃ生きられない以上必然的に 受け入れる というフェーズがやってくる
群れもしくは組織で活動することにおいて、だれかを受け入れ自分のことを受け入れてもらって初めて生きていくことができる。
ましてや、多様性のある組織を作りたいならなおさら
ただ、だれかを受け入れるということ、多様性のある組織を作ることは非常に「痛み」を伴う行為でもあると言える。
自分に1ミリも被害がない多様性なんて存在せず、ひたすらに受け入れる、話はそれからなんだろうと
もしかしたら、自分が犠牲になる可能性だってあるかもしれない
それでも誰かと一緒に生きて行く、共存する、時間をともにするってのはそういうことなのかもしれない
だから、利他でないと実は生けていけないし組織なんてのも、回らなかったりする
結果が遅れてやってくるのも当然で、自分がだれかのためにしてあげたことはすぐに自分の利益にはならずどこかいってしまう。ただ、利他は次の利他を呼び自分の元へやってくる、そうやってこの世は回っている。
少し話が大きくなりすぎたが、多様性のある組織を築きたければ
快不快で反射的に他人を追い出すのではなく、
まず無条件に「受け入れる」ことから始めてください。
痛みはあると思いますが、それ以上に大きな恩恵が巡り巡ってくるので、どうか受け入れてあげてください。