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子どもと問う#13 〜然るべき叱り方〜

子どもと問う#13
〜然るべき叱り方〜


最近、我が家のルンバの調子が悪い。
初っ端から生活感溢れる話で、アーバンでラグジュアリーなエッセイを期待していた読者には申し訳ないが、私にとっては大問題なのだ。

結婚して10年、雨の日も風の日もルンバには(関係ないし)助けてもらった。
ルンバ無くして、我が家に足の踏み場はない。それが調子悪くなっている。一大事だ。

しかし娘5歳はそんな悲嘆にくれるママを意に介さず、時々止まるようになってしまったルンバに「シンデレラ」と名前を付けやがった。
「シンデレラ!ちゃんと働きなさい!」「もっとお掃除するのよ!シンデレラ!」などと叱り、たまに蹴飛ばしたりしている。意地悪なおねえさんである。




前々から悩んでいるのだが、どうも私は子どもを叱るのが下手だ。
「これは叱るべきことなのかどうか」が判断できない。
育児において「怒る」と「叱る」は違うとも言われるが、怒るのも叱るのも下手だと思う。

別に「ようしょうきのとらうまが」なんて言うつもりはサラサラ無いのだが、私自身よく叱られる子どもだった。
時代も違ったし、大人達は今よりもっとカジュアルに子どもを叱ったり怒鳴ったりしていた気がする。

そんな小さい頃の私にも唯一例外があった。食器を割った時だ。
私の母曰く「形あるものは壊れる」とのこと。
今になって母に聞いてみたら、何のことはない。私の母が非常によく食器を割るタイプで、その自分を責められたくないから子どもも責めなかったらしい。あと、割れた破片で怪我したら困るから動くな、という意味もあったようだ。つまり、叱るよりも片付けが優先されていただけだ。
理由はどうあれ、叱られることの多かった私は、その失敗だけは叱られないというのは嬉しかった。
だから私も、子ども達が食器を割っても叱らない。私の自慢の食器コレクションがどんどんプラスチック製品に変わっていっているだけだ。



しかし、元々叱られてばかりだった私と、叱られることの少ない娘とでは同じ対応をされても受け取り方が違う。
雑に言うと、最近うちの娘は調子乗ってるのである。マジで。

この前、ソファーの上で娘がゼリーを食べていた。ツルツルと滑るゼリーをツルツルと滑る器の中で追いかけ回した娘は、ゼリーをソファーの上に盛大にこぼした。
そして私に言ったのである。
「ママ、ゼリーこぼれたよ」と。

布製のソファーにべちょべちょに崩れ落ちたゼリーと、悪びれもせず自分は汚れないように隅っこに移動した娘を見て、私は思った。
コイツ、調子乗ってんな、と。

崩れ落ちたゼリーは割れた食器と違って怪我はしないが、片付けにくい。子どもにやらせるより大人がやったほうが被害も広がらずに片付けられる。ソファーカバーも洗濯しなくてはならない。
でも、ゼリーは「こぼれた」んじゃなくて、お前が「こぼした」んだろ?と。中動態じゃねえぞ?と。
手伝われると被害が拡大しそうだから、ママがやるんだけど「片付けてくれてありがとう」だろ?と。
これじゃママがシンデレラじゃないか。しかも、王子様も待ってないし、ドレスも腰回りがキツくなってるし、舞踏会が開かれる時間は寝かしつけで絵本読んでるし、これじゃ、JUST Aシンデレラ(=ただの灰かぶり)じゃないか。

元ヤンのママは、いっちょ〆てやらんと思い
「娘ちゃん、ごめんなさいもありがとうもないって、どういうこと?自分でこぼしたんだよね?」と詰めた。
すると娘は、謝りもせず拗ねたのである。

ソファーを掃除し、新しいゼリーを出しても、娘は拗ねており、私だって引く気がない。
両者にらみ合いを続けながら、ゼリーを食べ、歯磨きをし、寝かしつけの絵本を読み、寝た。
信じられないくらい空気の読めない息子3歳は、「今日はこれがいい!」とハートウォーミングな絵本をリクエストし、ママは元ヤンの血を煮えたぎらせながらドスを効かせた声で読んで、みんなで寝た。


子ども素晴らしいところは、寝て起きると世界が一新されているところである。
「ママ!おはよう!」といつも通り私の上に覆いかぶさって、寝坊助ママを起こしてくれる娘に私は感謝し、その重さに愛情と信頼と腰痛を感じながら起床して、いつも通りの朝が始まった。お支度をして園に向かう。

子ども達をママチャリの前と後ろに乗せて信号を待っているときに、息子3歳は気付いた。
「ねぇ、なんで車の信号は青と黄色と赤があって、歩く人の信号は青と赤だけなの?」
私は信号待ちの間に、自動車と歩行者の速度の違いと青信号の点滅の意味などについて説明し「赤の時は絶対に渡っちゃダメだよ」などと言いながら考えた。
叱られることと叱られないことの境界線はどこにあるのだろう。


検討対象を三つに分類すると、
1信号を守らない
2食器を割る
3ゼリーをこぼした
である。

もし、叱られるか否かが危険度によって変化するとしたら、
1信号を守って歩かないと死ぬかもしれない
2食器を割っても、怪我はするかもれないけれど、そんなに命の危険はない
3ゼリーをこぼしたぐらいでは、ほとんど危険はない

でも我が家では、
1叱られる
2叱られない
3叱られた
になる。
どうやら危険度が問題ではなさそうだ。


それでは、ワタクシ叱る側から考えると
1危ない!絶対やめて!と心配になる
2怪我しないでね、と思う
3調子乗ってんじゃねー


ここまで長文のエッセイに付き合ってくださった読者にはまた申し訳ないのだが、拍子抜けするような結論が出てしまった。
どうやら「叱られるか否かの境界線」は命の危険があれば絶対叱られるが、他に関していえば殆ど叱る側の心持ち一つであるようだ。

大体、叱る側は腹が立つ・めんどくさい・わずらわしい等のマジ個人的理由で、怒っているという感情を叱るという行為に変換している気がする。
「静かにしなさい!」と大声で怒鳴っている自分に気付くと、親というものの不合理性と自身の至らなさに気付く。

でも、開き直るわけじゃないが、大体そんなもんではないだろうか。
この前『仲なおり』というテーマの哲学対話に出た。
色んな話が出たが、仲なおるにはその前に諍いがあり、その諍いは大体不合理なものなのではないだろうか。個々人の理が合わずにぶつかるのではないだろうか。

決して、マジ個人的理由で諍うのが悪いと言いたいわけではない。だってシンデレラが虐められたのも王子様に見初められたのもマジ個人的理由だし、子どもと親だって個人と個人だ。
個人と個人であるということは別人であるということで、意見や感情が対立することはよくあり一致する方が珍しい。

問題は、その個人と個人の間に権力格差があることで、親というのは子どもに対して圧倒的に権力を持つ。愛情という名の暴力性と加害性をも潜在的に持つ。その権力に自覚的でありたいとは思うけど、息を切らすような育児の中でそんなこといつもいつも思ってられないというのも本音だ。
だからせめて、マジ個人的な気持ちとか感覚とかそんなもんで叱ったりしてるよというのは早めに子どもに伝えてやりたい。けど、あんまり上手くいかない。だって私自身が怒っちゃってるから。

そんなこんなで、やっぱりまだ私は子どもを叱るのが下手だ。
「シンデレラ!」と蹴飛ばされるルンバが可哀想で「やめなさい」と娘を叱るのだが、ルンバを一番酷使しているのはママである。
いつかルンバに「ママ、調子乗ってんじゃねーぞ」と叱られる日が来るかもしれない。


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