なぜわたしたちは、会って話をするのか? 『会って、話すこと。』
予約注文をしたこの本が僕の手元に届いたのは去年の9月のことだった。すぐに読み、それからもう半年近くがたった。
先日、僕にどうしても会いたいという人(保険屋のおねぇさん)がいたので、この本のことをふと思い出した。「せっかくだからこの本に書いてあること、今日はちょっと意識してみようかな」と待ち時間より1時間前にファミレスに入り読み返すことにした。
初めてこの本を読んだときは当たり前だが最初のページから順番に、クスッと笑いながら楽しく一気に読んだのだが、今回はあまり時間がないこともあり逆から読んでみることにした。
いきなり最終章からだ。
第五章 なぜわたしたちは、会って話をするのか?
そう。なぜわたしたちは会うのだろう。世界はこんなに変わったというのに。何千年も前からずっと変わらず、人は人と会いたがる。
昔読んだ本にこんな文章が書いてあった。
「お顔見るならお写真で、お声聞くならお電話で、こんな便利な世の中で、会わなきゃできないことがある」
実はこれは昭和の下ネタなのだが、たしかに肌のふれあいなら理解できる。絶対に会わなくちゃできないことだ。
しかし、そうでないならば。お互いに全く触れることもなければ、触れる必要性もないコミュニケーションならば、会う必要はあるのだろうか。
令和の今は昭和とは全然違う。お写真、お電話、お動画、それもふんわり加工して。これだけのツールがあるのだ。昔より格段にお互いに気持ちよくコミュニケーションが取れるはずなのだ。
なのにわたしたちは、会うことを欲している。
会って、話したいと思っている。
それは、なぜなのだろう。
そんなことを考えながら、第五章のページを開いた。僕は一度この本を読んでいる。この本の中に、その答えは書いてあっただろうか。僕が見落としていたのだろうか。
読むのが2回目だったからかもしれない、第五章から始めたからかもしれない、読み始めるとすぐに気付くことがあった。
「この本に書いてある言葉はとても深い。きっとわかりやすく読みやすく、一文の長さ、全体の文量、その順番や配置まで、読み手にやさしく書かれた本だと思う。でも本当の意味でこの本に書いてあることを理解をするのは、簡単じゃないかもしれない」
例えばこんな文章がある。
しかし、ことばというのは、ある種のフィクションである。わたしたちは、言葉を操るホモ・サピエンスである前に動物である。わたしたちが、ある人間に感じる人間らしさや、愛情の本質は、じつは沈黙にあるのだ。沈黙する肉体のなかで、人間の真の価値が育まれると言っていい。沈思黙考という四文字熟語がある。よく見てほしい、真の思考とは、沈黙とワンセットなのである。
おわかりだろうか。
「へぇー、そうなんだ。黙ることも大切なんだね」とサラッと読み飛ばすこともできる。だが自分はここに書いてあることを本当に理解しているだろうかと考えだすと、もう次には進めない。
「人間らしさや愛情の本質は沈黙にある… とは… 」
もうここから先は、う~むしか出てこない。いや、これ会話の本だったよね?と表紙を見返したりして。
この本はとてもわかりやすい。とても楽しい。だが深く掘ろうと思えばどれだけも掘れる。そこには覗き込めば真っ暗な穴がパカっと大きな口を開いている。真の理解を求めてそこに飛び込んだのなら、しばらく帰ってこれないかもしれない。
第五章には『風景』という言葉が出てくる。
そしてここで使われる風景という言葉が表すのは視覚情報のことではない。
わたしとあなたの間にある風景
おわかりだろうか。
いや、そこには視覚情報も間違いなくある。だが、そうではなく、目で見えるものではない ”わたしとあなたの間にある 風景 " とは。
それはいったいどういうものなのだろう。
第一章では編集者の今野さん言葉で綴られていた。
わたしは、新しい発見、おもしろい出来事、大切なものは、いつも「あいだ」にあると思っています。著者と読者のあいだ、ジャンルとジャンルのあいだ、社会と本のあいだ、冷静と情熱のあいだ、股間、行間、人間。ほんの中に編集者が登場する禁じ手をわたしが引き受けたのは、会話で生まれる、人と人との「あいだ」をこじ開けるためです。「わたしとあなたのあいだ」になにが生まれるのかを、知りたかったからです。
おかわりだろうか。
股間だけはハッキリとわかるが、それ以外の”あいだ”は触れられるものでもなければ目で見えるものでもない。
ただ、そこには何かがある。それは感じることができる。そう、それはきっと触れるものでもなく、目で見るものでもなく、心で感じるものなのだろう。
なぜ人は人と会いたいのか。
なぜわたしたちは、会って話をするのか。
この本は、会話のテクニックではなく、言葉のアートでもなく、フィロソフィーを受け取る本なのだと思う。
そう、哲学書です。だから深い。でもとてもわかりやすく笑いながら読める哲学書なので、素直な学生さんからちょっとややこしい僕のような中高年のおっさんまで、それぞれに楽しめると思います。
ちなみにこの本の最終ページには写真がある。見た人は僕と同じように、きっと何かを感じると思う。
でももしこの写真が、二つのモニターに映し出された顔だったとしたら。それは違って見えたと思います。
ふたりの間の ”風景” をぜひ感じてみてください。
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