SNSに疲れたら広場に戻ろう
公共空間って非常口の前の空間みたいなところだと思うんですよね。空間として「空いてる」ことが必要なんだけど、でも日頃は意識しないのでごみ箱とか前に置いちゃうの。現実世界、現代社会に必要なバッファこそが公共空間なのではないかなあというのをハーバーマス先生とか読んでて思います。
公共空間ってどこ?
例えば広場を想像すると、広場の北では井戸端会議があり、南に飲み会があり、東では子どもが走り西では言い争いが起きている、という、人口はあれど個別の空間がそれぞれに包摂されていることが容易に想像がつくと思います。このそれぞれのコミュニティの間、広場の中の空白地点こそが公共空間です。ここが空いてるからってごみを置いたり落書きやいたずらをしたりというのがNGなのもよくわかると思います。これがいわゆる公共の福祉で、広場は基本的には自由なんだけど他の人のことを考えようねという考え方ですが、話を戻すと、この公共空間という名のバッファは個々人の緩衝材として必要な空間なので、ただ空いているわけではないということです。
SNSが"LINE"を引くこと
公共空間というみんなのリソースを切り刻んでさっと炒めてお金に変え始めたのがSNSだと考えています。ソーシャルネットワーキングサービスの文字通り、本来人々の間にあった社会的距離(公共空間)を縦横無尽に走り、会うはずのない北と南、西と東、その他無限の関係性を繋ぐビジネスモデルこそがSNSです。なぜならば、距離によって人々は引き離されていたからです。早く会いたいのに会えない人がいて、それをヴァーチャルであれ解決したのは、当初は幸せの第一歩だったのかもしれません。
結果として、個人という点と点はSNSにより線になりました。LINEなんか最もわかりやすいネーミングですね。その線が無数に通ることとなった公共空間には無数の広告が張り巡らされることになりました。先の広場の例で想像すると、なんだか広場が開発され歓楽街になっていくのと同じ構図を感じずにはいられません。広場や公園が音が出たり卑猥な広告だらけになることは、この空間はそのバッファとしての役割を果たせなくなることを意味します。でもしょうがないんだ。距離はいらないんだから。距離はみんなを不幸にするんだから。そうして無事にインターネットを介したやりとりには距離が存在しなくなりました。初めは嬉しい気持ちで、情報量の奔流で知的好奇心の満ちてゆく感じや、同好の士との出会いを楽しむ事が出来ました。
失って気づく距離感
そうやってインターネット上でのコミュニケーション距離の消滅に慣れていく一方で、逆にインターネットに逃げ場がないことに気づいた人間も多かろうと思います。実際、インターネットで発言する限りすべての発言はどこかのサーバに残り、クソリプという火種を機にいつか爆発します。そうして距離がないことが致命的となり、非常に多く人間からゼロ距離でガソリンを撒かれ爆速で炭化することになります。心もたんやろこれ。
他方で、失ったはずの距離はインターネットの外、現実世界にまだ存在します。距離は人々のやり取りを阻害する悪魔でもある一方、心理的・身体的な安全を守る砦となります。SNSを辞めたい人間の多数はこの「距離感」に悩まされているはずで、離れたいというのであれば、やはり現実世界にこそ目を向ける事が賢明でしょう。いうて現実世界なんて昭和レトロ2.0みたいな世界線でやってるんだしインスタとかTikTokとか見なくても十分に面白い説あるよね。とかく社会的動物として社会に参画しつつ、ときに必要な距離を取ることは狩猟以来我々のご先祖相伝の処世術であるはずで、まさに逃げるは(社会的に)恥だが(生きる上で)役に立つというそのままの言葉で表現される通り、自身の生存戦略としていかに逃げる時を逃さない嗅覚を得るか、というのは非常に大事なことだと言えるでしょう。
公共空間(ハードモード)を体験するということ
また公共の福祉の話から少し進めると、現代日本は素晴らしい福祉が充実し、多くのセーフティネットが機能しています。私も母子家庭特別奨学金が無ければ大学に行けず教員免許も持ってなかっただろうし、新卒で入った会社が秒で潰れた時に職安でスタンプラリーすることで次の職場に繋がれました。ありがとうハローワーク。他方、インターネット公共空間(SNS)にはセーフティネットが存在しません。ゲーム開始残機ゼロ、リスポーン無しです。普通に考えてハードモードすぎる。古来から「もっと殺伐としてるべきなんだよ」という吉野家名言がありますが、これはインターネット上の公共空間はあくまで仮想の公共空間であり、今では大方米国か中国のアプリなので、どうあがいてもそこに福祉という装置が存在しないためです。あくまで自己責任で楽しんでねと言って法律で縛りにくいのはこの点にあるでしょう。だからなんか当たったら即死、半年ROMってリスポーンが板なんですよ。
そもこのあたりの福祉と自助のバランス感覚は欧米+中韓と日本では大きく認識が異なるはずで、そのインターネット空間はそうした多数派の国々の論理で動いていますから、現実とSNSとのギャップに戸惑う人は「海外って怖いな」くらいの感覚でよろしいのではないかと思います。んで現実って意外ととやさしいよ。
広場に戻ろう
こうして「SNSって海外だったんだな」と考えれば、異文化圏での酸いも甘いもを噛みしめながら地元の広場(現実)に帰ってきたときのお味噌汁がおいしいことに感動するはずですし、実家の色褪せたシールが何だったか思いをはせながら見る夕暮れや、ありきたりな夏祭りも楽しくなってくるはずです。それに、自分が見るべきはモニターではなく愛する家族であり、気にするべきは自分や他人の評判ではなく子どもの心の機微なのだということです。そして、自分の輪郭を確かめられるのは自分しかいないのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?