変わること、変わらないこと
10月ですね。
今朝はようやく、25℃を下回る気温、爽やかと言える湿度(たぶん60%以下)で、秋らしい朝でした。
が。
台風がいくつも発生しているせいでしょうか、予報によると今日もこの先も、最高気温が30℃に達する日があるんですねえ。
さすがにもう、いい加減にしてくれという気持ちです。
日中はそうやって真夏日だけど、朝夕は流石に涼しくなるということで、気温差も激しくなりますね。
皆様もどうぞお身体をお大事に。
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「光る君へ」37回の感想も書きたいのですが、勉強にも雑用にも追われてまだできておりません。
明日にはなんとか……と思っております。
価値観てなんだろうな、とちょこっと考えております。
こちらのまとめにもありますように、わたしもお父様と同年代の人間として、まず思ったのは
「更年期によるメンタル低下が考えられる」
体調、身体的な条件て、思う以上にメンタルに影響しますよね。
ことに男性の場合はあまり更年期というのは言われませんから、そもそもこれがメンタルや身体の不調だと気づかない、ということもあり得る。
つまり実際には自分の体調がイマイチなだけなのに、周囲が悪い、環境に原因がある、と考えてしまうということ。
もちろん外的な条件が影響ゼロではないにしても、自分が体調悪くて気分が悪いんだったら、そりゃ体調を整えるほうが先ですよって話。
そういうことはそれとして、あらためて考えたのは「価値観」のお話。
もちろん、価値観には、時代の変遷の影響はある。
あるけど、今だって昔だって人としてやっちゃならねえことはやっちゃあならんのですよ。
だから仏教であれキリスト教であれ、二千年を超える教えが今も響くわけでしょう。
昭和がどうだとかこうだとか。
言い訳じゃないですかそんなん。
——と、ちょっと冷たく考えてしまいました。
性格は変えられないと思っている人も多いと思いますが、性格のほとんどは「習慣のカタマリ」なんですよね。
行動や生活習慣だけではなく、思考の癖、心のクセも含まれます。
自分の性格だと思っていたことが、習慣をあらためたことで変わってしまうというのはあり得ます。
変わらないのは「性質」でしょう。
水とか火とか木とか土とか——ああいうの。
洋の東西を問わず、古来、人々はあらゆるものの「性質」を、自然の中に存在するものに寄せて見ていました。
わたしもどっしり動かないところ、ややジメジメしているところを考えると、分類するなら「土」の性質かなと思います。
そんな感じで、「三つ子の魂」は「性質」を表すと思っています。
性格は、その性質の上にさまざまな習慣が形作られてきたもの。
なので、時間は多少かかるにせよ、習慣を変えることで結果的に性格は変えられる。
価値観は。
これは性格になる「以前」のもの——、先ほど申しました、思考や心のクセに入るのでは、と思います。
上記で話題のお父さんが言っている
「多様性の実現によって自分の発言権は失われた」
という認識も、昔の封建的な思考を自分は変えられない、という意味で言っているのかと解釈しますと。
(具体的なところはご本人に聞いてみないとわからないのですが、ともあれツイ主様の証言から推測いたしますと)
変えようと思って変えられないことはない、と思います。
ようは自分がどれを「選ぶ」のか、「決める」のか、ということ。
多様性と言ってもこれもまあ、理念としては理解するけど、実際にはいろいろ危うい側面があるので、わたしも諸手を挙げて大賛成ってことはありません。
ただ、昔風の習慣にしろ、当代の多様性にしろ、人として守るべきことは決まっている。
「自分も人様も傷つけないこと」
やっちゃならねえこととは、
「誰かに悪意を向けないこと」
「ましてそれを実行に移して自分や他人を傷つけないこと」
です。
これはそれこそ、2000年以上前からずーっと同じですよ。
仏教の極意を聞かれた高僧が
「諸悪莫作、修善奉行」
「悪いことをするな、良いことをせよ」
と答えたそうです。
そう言っちゃうと、善悪の価値はまた時代で変わりますけども、根幹は変わりません。
悪意を向けないこと。
何かや誰かを傷つけないこと。(自分を含む)
こういう核となるものさえ押さえておけば、価値観なんぞはいくらでもアップデートできる。
どうしても自分はこれは選べない、というのなら、それもいいのです。
人として外せない核が、そこにちゃんとあるのなら。
そんなふうに思いました。