お金は愛のエネルギー
先日の大発見。
「お金は愛のエネルギー」
大発見といってもそれはわたし個人にとってということであって、わかっている人はわかっていると思います。はい。
特にこの1年はお金に関する諸問題に向き合うしかないことが多くて。
わたしはもともと「お金は不浄」みたいな意識はないほうでしたが、我ながらお金については変に吝嗇(りんしょく。けち)の部分と、そのわりにお金の管理がルーズになって、つまらないことでお金を「流してしまう」(散財にすらならない)ことも多かったです。
そうやってつまらないことでお金を失うとすっごい落ち込んで、もうそういうことはないようにと思ってギチギチに自分を締め上げて「けち」に陥る。
しばらくはそれで納まっているけれど、ある程度ふところ具合が落ち着くと油断して、またルーズになって、ダバッと流してしまう。
そういうことを繰り返しての半生でした。
変にケチなところのひとつが「自分に投資できない」こと。
何かの講座を受講するとかですね。
できるけど、なんせ本当に具合の悪い頭しか持っていないので、一生懸命勉強しても試験には合格しないということばかりです。
そうなると
「お金をかけたのに、元が取れなかった」
つって、そりゃもうハラワタに火がついたほどに苦しくて悔しくてたまらない。
凄まじい怒りが出てきて、この怒りの矛先は自分なんですね。
自分責めはよろしくないけれど、自分責めなんてもんじゃないです。
自分で自分を拷問にかけるくらいの勢いです。自分で自分を半殺しです。
で、だんだん、何に挑戦しようにも「どうせまたダメだ」「わたしにお金をかけたって、お金の無駄だ」というブレーキがかかるようになる。
現在もそんなところを味わっているのですが、しかし今回はさすがにわたしも考えた。
なぜ、こんなに自分を殺しかねないほどの憎悪をたぎらせて悔しいと思うのか。
なぜそこまで「無駄」だと思うのか。
出てきた答えは
——「結果」しかみていないから。
でした。
どんな挑戦でも、資格取得の受講でも、たとえ不合格でダメだったとしても、勉強はしているし、いろんなことを学んではいるんですね。
今まで知らなかった知識を得ている、PCの操作や、ソフトの操作法も学んで、実地に体験してもいる。
これは無駄なことではない。
勉強して、経験して、体験して、自分なりに学んだこと、そういう世界が世の中にはあるんだなーという「視点」を得られたこと。
それはわたし自身にとっては豊かなこと。
この豊かさを認めれば、無駄とも感じないし、自分への憎悪にもならない。
なのに、わたしはわたし自身の価値を認めていない、自分を許していないので、自分が経験したことなんて「どうでもいい、くだらない、つまらないこと」とみなしていたんですね。
無駄だと思うのは、自分がそういう学びや体験をすること自体に価値があると「認めない」から。
自分という存在を認めていない、自己肯定できていないと、こんなことになってしまう。
そうして「自分で自分(の価値)を認める」ことで、お金の価値もまた、決定づけられる。
今までのわたしはこの点を理解していなかった。
わたしが何かの勉強をするために支払ったお金は、わたしがそれを学ぶことに価値があるから贖われたもの。
なのに、わたしが「学んだという体験自体には価値などない」とみなせば、お金の価値も全否定になってしまう。
これではお金が可哀想です。
お金は、わたしを応援してくれたのに。
なのに、応援された当の本人が
「わたしには価値なんてない」
といっちゃったら、応援してくれた人も面目丸つぶれですよね。
そんなことをしていれば、そりゃあお金だってがっかりして、だんだん寄り付かなくなりますよねえ。当然です。
そこで、ああそうかと思ったわけです。
お金のエネルギーって、応援、つまり「愛」なんだな——
お金は不浄のものではないし、かといって、自分から見てすんごい「上位」にいる、手の届かないような「偉い」ものでもない。
家族や友人のように、そこにいて、「応援してるよ」といってくれる。
そういうエネルギーが、お金の正体、本質、ありようなんだな——と。
今回、そんなことに気づきました。
その応援を受け取るには、自分が自分の価値を認めて、自分で自分を素直に応援する気持ちがあることが、大事というか、「あるべき姿」なんではなかろうか。
「ものごとは、結果もそりゃまあ大事だけど、実際のところはプロセス、過程の方が大事」
「過程を見るんだよ」
という教えを思い出しました。
わたしにはどうもこの考えが、「結果を得られなかった人間に対する、下手ななぐさめ」くらいにしか聞こえていなかったんですね。
もちろんプロセスをすっ飛ばして結果だけが現実になることはないので、そりゃプロセスは大事だけど。
結果のためのプロセスでしょ?
結果のないプロセスになんの意味があるの? と。
そんなふうに(あまり意識はしていませんでしたが)考えていました。
けれども。
自分が経験することのひとつひとつ、地面を踏み締める一歩、その「感覚」を「味わう」ことが、この世を生きることであり、生きることの意味なり価値なりをもたらす。
とすれば、「大切なわたし」が、経験することこそがまずは大事。
大切なものを大切にするために、応援という愛のエネルギーが送られる。
ゆえに。
自分にお金を使うことは「愛」を受け取ること。
それは感謝して受け取ればいい。
罪悪感はいらない。
自分を半殺しにするまで痛めつけるべき理由などない。
そんな考え、あるいは「気づき」に行き着きました。
今まで変にケチになっていたことも、ルーズになってお金を大事にできなかったことも、根は同じところにありました。
自分で自分を認めていない。
自分の価値を否定している。
その現れだったんですね。
お金は、それでも、愛と応援のエネルギーとして、寄り添っていてくれた。
そう思ったら、これはもうただただ、感謝あるのみです。
お金は、愛の(応援の)エネルギー。
キタナいものでもないし、「怖い」ものでもない。
繰り返しますが、お金は愛のエネルギー。
そういうイメージに変わったというのが、わたしの比較的最近の大発見でした。
よく「お金に好かれる人」といった言葉を聞きますが、それはどういう人なのかも、ちょっと見えてきた気がします。
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