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【短編小説】水泡にキス

 行方知れずの夫『満男』は数年後に滾々と水が湧き出る泉の水辺で見つかった。
 帰ってきた満男は水しか飲ま無かった。
 満男を連れて散歩に出かけた時には、少し目を離しただけで姿が見えなくなった。また、彼が何処かに行ってしまう。焦りながら探していると、近くの川で子どものように笑いながら、服が濡れることも気にせずバシャバシャと手足をバタつかせている。私は靴を履いたまま川から満男を引き摺りだした。
彼はどこか不満そうに「ごめん」とだけ言って、その日は何も話さなかった。その後、風呂に服のまま入ったり。台所がずぶ濡れになるほど水遊びをしたりすることがあった。でも、私は少しも腹が立たなかった。満男が側にいてくれるから。

 ある日、満男が海に行きたいと言い出した。川の件があったので、私の目が届かなくなるかもしれない海は少し不安だった。だけど、「お願い」と手を合わせる彼には逆らえなかった。
 車を走らせ、満男を海に連れて来た。
 満男を殺した海に。デート中の些細なケンカだった。私ははずみ彼を崖から突き落としてしまった。彼は行方不明ということにして、捜索願いを出した。だから、満男が生きて見つかったと知らせがあった時は死ぬほど驚いた。

 そして今、夕暮れの浜辺ではしゃぐ満男を眺めている。ずっとこうだったらいいのに、この無邪気になってしまった満男となら上手くやっていけそうな気がする。
 遊び飽きたのか満男が海からこちらに歩いてきた。私も満男の方に向かってゆっくり歩く。
「もう、行かなくちゃ」満男は困った顔でそう言った。まるで、遊園地から帰りたくない子供のように。
「どこに?」と私が尋ねると満男は海を見たり、空を見たりした後に「いろいろ」とだけ言った。
「そう……」私はそれだけ言って彼にキスをした。満男の唇は砂でじゃりじゃりして、そして少し塩っぱく感じた。満男が私の肩に手をかける寸前で水になって崩れ、シュワシュワとした泡になって砂浜に染み込んで言った。
 満男はきっと海に帰った。そしてまたいつか、雨になり大地に降り注ぎ、どこかの泉で目を覚ますのかもしれない。


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