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ねこと暮らす

うちの大きなねこが、尻を見せてくる。さ、どうぞ、と尻を見せてくる。しっぽは天井に向かってぴんと立っている。つまりここで言う尻は臀部でなく肛の門で、去勢手術によって小さくなったタマも一緒に見せてくる。母猫にお尻をなめてもらった子猫時代の名残だとどこかで読んだ。わたしに尻を向け、さあどうぞ、と言わんばかりに振り返るねこのなんとも言えない甘えた表情を見つつ、はいはい、と見せられたそこらへんを手のひらでぽんぽん、と優しく叩く。続けてしっぽのつけねもぽぽぽんと叩く。うちの大きなねこの肛の門はすごくきれいで、便のキレのよさを感じる。わたしはその手のまんま平気で過ごす。満足したねこはどっかへ歩いて行った。

ねこと暮らすということは、ねこがトイレをかきまわした手(前足)をかわいいと撫でることだし、なんならその手のにおいを嗅ぐことだ。

ねこと暮らすということは、くつが並ぶ玄関土間でごろんごろんと背中を地面にこすりつけてほこりをつけたねこにせがまれて、Tシャツをほこりと毛まみれにしながらねこを抱っこすることだ。

ねこと暮らすということは、「ねえ、うちのねこっていまなんさい?」「ねこってなんさいまで生きるの?」「えー、みじかいね、すぐだね」って幼い子どもに言われた夕飯時に涙があふれることだ。

ねこと暮らすということは。

なんてみじかい幸せなんだろう。

自分にしかないねことの思い出が、書いてみればわたし以外にはきっとどうでもいい出来事が、たくさんある。今は元気なねこたちがシニアになり、老猫になる日は遠くない。朝、わたしの腹から胸にかけて寝そべっていたきいろいねこも、最近デレが激しいちいさいねこも、大好き大好き大好きと24時間熱烈に愛のこもった眼差しでこちらを見つめてくるおおきなねこも、いつか星になる。

昨日、ひどく落ち込んだ。少し前から悲しいことがずっと腹の中にいすわっていて、その出来事から心を離そうと思っても苦しみにつかまえられる。そういう日に限って急に背中に飛び乗ってくるちいさなねこがいて、ソファに座るわたしにしなだれかかるおおきなねこがいて、食べたばかりの高級ウェットフードをじゃばーーーーっと吐くきいろいねこがいる。気に入ったTシャツの背中には小さな穴があき、風呂上がりの首もとに毛がまとわりついてかゆく、ねこのゲロをふいてティッシュ箱が空になる。悲しんだままでいられないこの生活のなかで、わたしは生かされている。

ねこと暮らすということは、どうやっても返しきれない愛をそそがれることだ。

ねこと暮らすすべてのひとが、どう頑張っても返しきれない愛を抱えていることを思うと、じんわりと視界がぼやける。自分が誰かに愛されていることはもちろんだけど、世界のどこかの知らない人が、更にわたしの知らない人やねこや犬やなにかに愛されていることを、わたしは知らないけど知っていて、それがいま、一番の幸福だ。世界の幸福だ、と思う。

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