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【子育て】考えない子

こんにちは。まずは数ある記事の中から当記事にアクセスしただいてありがとうございます。またタイトルの写真を勝手に使わせていただいたtakoyakiyuchanさん、ありがとうございます🙇‍♀️

自己紹介

まず私について紹介させてください。

〈自己紹介〉
・20歳,大学3年生
・町塾の講師
・元クソガキ(自戒)
・成績は中の上(でした)
・運動大好き,ゲーム大好き


 私はお塾で先生をさせてもらってます。今年でもう3年目になります。

 動機は時給の良さ。それ以外にありませんでした。そもそも冷静に考えると、自分ほど先生を名乗る資格のない人もいないというくらい、人格者でもなければ勉強も大して得意でなければ教えるのも上手ではなかったのです。ただやるからには全力と言うことで、右も左も分からない状態から今まで試行錯誤して、ようやく最近「授業らしい授業」になってきたかなという感じです。

 そんな具合で、生徒に国語(TOEIC960なのに)を教えてるのですが、2年と少し先生をしていて「最近の子」に対して思うところがあるのです。


国語が苦手な子どもたち


 国語を教えていて度々思うことがあります。最近の子(現代っ子)はどうやら文章が読めません。(+読むのが苦手な子が多いです)

 これは随分前から糾弾されていたことで、私とてポストゆとり世代である、Z世代という謎の括りでまとめられて「Z世代は〇〇ができない!!」と言うふうに言われていたと思うので、自分と違う世代の人間を一緒くたに批難する行為は人間の性なのかもしれませんが、20歳の私とそこまで大きく年の離れない生徒たち(若年者の頼りない先生でごめん)と私でこんなに感覚に差があるのですから、上記のような跋扈する決めつけとは、一線を画した意見なのではないかなぁと、個人的には思います。

 読めないと言うのは、もちろんliteracyがないという意味ではありません。音読させれば文章は読めるし、漢字を書かせれば別に書けます。ただ、こと話の内容に対して「明かに理解が不十分な子ども」が多いように感じるのです。それはもちろん問題を解けないからということもありますけども、私とて別に彼らと同じ年の頃に問題を解けていたかと言われたら、「断じてそんなことはない」という回答になるので、ここで言う「読めない」は国語の学力自体の低下を指しているわけではありません。

 では、何が原因で読めないのでしょうか。私はよく、

「この文章は何についての文章なの?」(主題特定)
「この文章の内容を、道ですれ違った何も知らない人にもわかるように説明して」(要約)

と生徒に問います。もちろん答えられる子もいるのですが、自分の言葉に置き換えられなかったり、主題がわかっていないことが原因で答えられない子が大半です。私はこれらの経験から、

「この子たち、考えていないのではないか」という結論に至りました。

「考えていない」と言うのは、文字通り考えていないことを指しますが、もっとわかりやすく説明するならば「経験に頼っている」とでも言えるでしょうか。

 普通、人は新しいことを始める時に「どうすればいいのだろう」と考えます。そして編み出された仮説を検証し、それが正しかろうと、そうでなかろうと、自己反省をして次の活動に反映・改善していきます。

 そしてある程度その活動のデータを蓄積すると改善活動の成長は頭打ちとなり、そのデータを元に行動を決定するようになります。

 これを私は「経験」と呼んでいます。

 通常、人は日常生活の大半を経験で賄っています。例えばみなさんがご飯を食べるときに、いちいち「箸はこう持ったほうがいいのではないか」「三本で掴んだ方がうまく食べられるのではないか」なんてことは考えません。
 しかし、何も考えていない=無意識下に、最適化された箸の持ち方を実践し、特に何か考えることもなくご飯をぱくぱく食べているのです。

 すなわち「経験」そのものは別に悪でもなければ、むしろ素晴らしいものであるとさえ言えるのですが、さて文章読解をしようとなった時に経験に頼り切るのはいかがなものでしょうか

 先に断っておくと、もちろん文章読解にも「経験」が必要です。例えば、接続詞の働きをきっちり暗記している人とはあまりいないと思いますが(順接,逆説,並列,累加など)それでも文章を読む時に私たちはそれらをしっかりと理解しながら読むことができます。専ら日本語が読めること全般は「経験」に分類されるでしょう。

 しかし、内容を「理解」することは、基本的には「新しいことのインプット」であって、経験の範囲から出なければ「理解」はできません。「これってどういうことなんだろう、もしかして自分の経験で知っている知識で置き換えればこういう事かな…?」と思考した結果、something newが理解出来る訳で、経験だけでハンドルできるものではありません。

 子どもたちは、いくら体が大きくても、やはり経験も知識も大人に大きく劣っています。ですから時に理解できないことは自然なことです。しかし、「どうしてだろう」と考える姿勢を完全に失い、盲目的に文章を文字として読むだけの子どもの多さには唖然とします。「考える力」が失われているのです。

 原因は情報の海の中を子供が生きているからではないかと思います。

 私はgoogleもchatgptもしばしば利用しますが、不思議なことに、調べたことをすぐに忘れてしまいます。これは「自分で考える」ステップを完全に省いて答えだけをインプットしているからではないかと考えます。土台がないので記憶の一部を失った時に修復する術がありません。答えだけ知っていても、実際には私は何にも理解できていないわけです。印象にも残らないので忘れるのも無理のない話です。

 このように世の中には「答え」が溢れています。知らないことをググれば基本全て知ることができるし、tiktokやyoutubeをボケーと見ていれば、自分の関心外のことも勝手にインプットされます。しかし、過程がないので、その知識は極めて空虚です。知識の空洞化です。そして今の子どもらはデジタルネイティブ世代として、生まれてからずっとこの構造の中にいるわけです。

 今日、小中学校は授業でipadやパソコンを使うそうです。すごい。すごいんだが、確かに便利なんだが、やばい予感がします。アナログな教育はきっとあと数十年もすれば淘汰されるでしょう。ただアナログな、手を使って、紙をめくって、辞書をひっくり返して、鉛筆を使って。アイデアをこねくり回すあの瞬間は、どうしてもデジタルで再現できるように思えません。アナログは答えが完全に見えませんが、デジタルの場合は別タブを開いてググってしまえば一瞬で答えが出現します。答えがずっとちらつくのです。正しさが奥に存在してしまうのです。

 すると「考える必要性」といいますか、緊急性みたいなものが一気になくなってしまって、「どうせググればわかるんだから」と思考を放棄する動機を与えることになってしまいます。そして、デジタルネイティブ世代の子どもたちは、どうやらその被害者になってしまっているみたいです。


子育てするなら


 私の読みでは今後、この知識の空洞化の構造がどんどん加速していくように思います。考えるきっかけであった学校も、今やその機能を失いつつあるとすれば、子どもはどこで考えればいいのでしょうか。

 私は、もし子どもがいたなら「考えさせてあげたい」と思います。そういう癖を育ててあげたいと思います。哲学でも、パラドックスでも、原理でも、なんでもいいです。子どもに向き合って答えのない問いを用意し、子どもの考えを肯定したり、疑問を出したりしてあげたい(してあげないとやばい)と思います。

 今子育てをしている方、学習塾にお子様を預けて中学高校受験をさせようとしている方、私は何か子どもに「考えさせる」習慣をつけさせる努力をした方がいいと強く思います


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