雑文(82)「あご」
あご以外は完璧なのだ、と、おれは鏡のおれにいった。
あごから上なら、おれがいうのもアレだが、なかなかのイケメンだし、あごを隠せば芸能人ですか? と、街中で訊かれても不思議はない。
学歴だって申し分はなく、都内の有名私立大学を首席で卒業し、就職先だって誰もが一度は聞いたことのある大企業、それもそこの管理職で年収だって誰もが羨む多額の収入を得ているわけで、ようはおれは、勝ち組なのだ。
それなのに。
おれはそういって、あごをさすった。
このあごのせいで。
あと、そうだな、三センチメートル、いや、一センチメートル短ければ、おれの人生だってもっと華やいでいたにちがいない。
このあごのせいで。
おれはそういって、あごをまたさすった。
あいかわらずの立派なあごである。なんどこの、このあごをノコギリでギコギコしようと、しまいとギリギリで思い留まったか知れない。
このあごさえ、あともう少し短ければ、おれの人生は。おれの人生はもっと幸せだったにちがいない。
あごが憎い。
なぜ醜く長いのか。なぜ人よりおれのあごは長いのか。両親や祖父母を辿ったが、誰もがおれよりあごが短いから、おそらく隔世遺伝というより突然変異だろう。
きっと一族に呪いを、どこか誰かが、突然変異を起こす呪いを先祖にかけて、いまを生きるおれを苦しめているのだろう。
ああ、なぜおれが。
このあごさえもう少し短ければ、おれの人生は。おれの人生はもっと幸せだったのに。ああ、どうして。どうして、おれのあごは人より長いのだろう。
おれは、鏡のおれに訊ねるが、鏡のおれはむろん、苦悶の表情を浮かべるだけで、答えてくれない。
ああ。あごが憎い。あごが憎い。ああ。
洗面台のふちに両手をつき、うつむき気味に深いため息をつく。
あごさえ、あごさえ、あと少しだけ、あと少しだけ短ければ、いいのに。なぜ。
おれは、買ったばかりの、四月から着用が努力義務化された新品のヘルメットに、短すぎる、いや、おれには少しだけ短いそのヘルメットバンドに、途方に暮れてしまう。
クーリングオフの理由と、会社遅刻の理由を同時に考え、おれは嫌になってしまい、おおきなため息をまたついた。
このあごさえ。このあごさえ、あと少しだけ、あと〇・五センチメートル短ければ、おれの人生は、おれの人生はもっと、いまよりきっと幸せだったにちがいないと、おれは、あごをしゃくってそういった。
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