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雑文(62)「洗われる」

 ドラム式洗濯機の中に、放りこまれた。
 左開きのドアを閉められると、開始ボタンを押され、ドラムがゆっくり回転しはじめる。それを確認すると妻は、離れていった。
 
 水と洗剤の放出で、すぐに俺は泡まみれになって、他の衣服や下着と同じく、着古され縮んだシャツや色褪せたズボン、妻の淡いピンク色のショーツや俺の黒のボクサーパンツなんかが、ごった煮状態でドラム内を回る。
 最近ひどくなった加齢臭のせいで、俺は洗われるのだろうか。
 それにしては、ひどいだろう。
 あんまりだ。
 洗濯機に放りこまなくても。
 と、次々と思考が巡る。
 だが、目も回る。
 体を小さく丸めたまま俺はドラムの中で回っている。回転は一方向だけではない。左右にと、急に変化するから、なかなか慣れない。
 けれども、人ってのは環境に適応するもので、それも三十分も経てば、次の方向が読める。その方向に、ドラム回転に合わせて自分から回ってやる。そうすれば、目は回らず、慣れてしまう。
 窓から外を覗くが、妻が戻る気配はない。
 俺の加齢臭を完全に脱臭するつもりなのか。
 その証左に、消臭剤のビーズが心なしか、いつもより多い気がする。
 むせる。強すぎる芳香は害だろう。
 適度だ。適度を守れと、言いたくなる。
 泡に洗われながら俺は、回る。
 だんだんと落ち着き、冷静な頭で、心当たりを探る。
 加齢臭のせいで、こんな目に遭わないだろう。
 あまりにも大げさだし、それだと世の中の夫が皆、休日洗濯機で洗われるのか。
 それはない。ない、ない。
 回転に合わせて、途切れ途切れになる意識の中で、いつもより余計に舌足らずな思考で、俺は懸命に事の発端を考える。
 なにもないのに、温厚な妻がこんなことをするはずがない。
 はっとすると、俺は回転向きを変えた。
 昨夜のあれか。
 俺は妻の心を傷つけたのかもしれない。
 慰めるつもりだったが、妻はひどく傷ついたのか。
 わざとじゃない。そんなに深く考えて言ったわけじゃない。けれどそれは、深く考えて言わなきゃならなかったんだと、俺は気づいた。
 軽率だった。
 あまりにも。
 もっと深く考えて、言わないとならない言葉を、よく考えずに言った。
「忘れよう」と、俺は言った。
 その時、妻の顔は青かった。俺の言葉で、凍りついた。それに慌てた俺はすぐに、「いずれは」と補足したが、手遅れだった。
 あれを根に持ったのだろう。
 だから俺はこうして洗濯機の中に閉じこめられ、洗われている。
「反省しろ」と、無言の妻の声がきこえるようだ。
 なんどかの放水と脱水で、体の泡はほとんど流れ、水をしぼった固い衣服たちに全身を叩かれながら、俺は回っている。
 加齢臭は消えた。
 他の衣服たちと同じ、いい匂いが俺からも漂う。
 窓の外を覗いたが、妻が戻る気配はない。
 許してくれと、窓越しに叫ぶ、だが、ドラムのギヤ音でかき消される。
「忘れよう」
 それがよくなかった。
 前を向いて進もうと、そういう意味だった。俺は舌足らずだ。だから誤解される。思考が途切れ途切れで、ぶつ切りなのだ。じっくり考えるのが不得意なのだ。男らしいと称されるが、それほど決断力はない。なにかを決めるのは昔から苦手だ。優柔不断ねと、妻に揶揄されるが、これは生まれ持った素養だから、俺にはどうしようもない。
 だから俺は、妻を深く傷つけてしまったのかもしれない。
 だからこうして洗濯機の中で、回っているのかもしれない。
 自業自得
 俺の頭の中に、その四字熟語が刻まれる。
 あれは、俺たちにはどうしようもできなかった。事故だったんだ。だからそんなに落ちこむなよ。いつまでもそこで立ち止まっていたら、どこにも進めないから。
 俺はあせったのかもしれない。妻には早かった。そうにちがいない。妻はまだ心の中が整理できていなかったのだ。それを俺が無理に、刺激した。だから妻は怒った。そして俺は洗濯機に放りこまれた。
 乾燥がはじまる。
 他の衣服たちと同様に、水分が飛んでいく。
 俺は干からびていく。
 窓の外を覗いたが、妻が様子を見にくる気配はない。
 なにをしているのか?
 ソファで泣いているのだろうか。
 それとも気晴らしに、テレビを点けているのだろうか。
 それとも、と考えたところで俺は思考をやめた。
 やめようと、勝手な推測は害しかない。勝手な妄想だ。それは事実ではないのだ。
 ここから出たら、妻に土下座しよう。
 許してもらえるまで、土下座しよう。
 男のプライドなんか捨てて、土下座しよう。
 妻がいないと俺は生きられない。
 妻なしでは、俺は俺でいられない。
 妻に出会ったから、俺は生きている。
 妻に出会わなければ、俺はとっくに死んでいる。
 だから謝ろうと、俺は思う。
 かぴかぴに、体を乾燥させられながら、受け身のまま黙って耐えていると、妻が様子を見にきた。
 助けてくれと、窓を拳で叩いたが、妻はすぐにどこかへ行った。
 きっと乾燥が終わる時間を見にきただけだ。
 洗濯機の中で、夫が洗われているのを、なんとも思っちゃいない。
 妻は忘れられないのだ。そんな簡単に忘れられない。彼女の身に起こったことだから、その苦しみを、第三者の俺が、わかるはずもない。けれど理解はしたい。いつまでも落ちこんでいたら、だめなんだ。前へ進まなくちゃ。
 そう、急かしたせいで、妻は怒った。俺は一切反省していないのか。洗われても、なにも反省できていないのか。しかし、とも思うが、俺はその言葉を飲みこんだ。
 停止した。
 ピーピーと、洗濯機がブザー音を鳴らす。
 解放される。
 妻がやってきて、ボタンを押して洗濯機の電源を落とし、ドアを開けると、衣服や下着を取り出す。
 俺も取り出され、他の衣服たちと一緒に、隣の寝室に持っていかれる。
 そして、他の衣服たちと同じく、きれいに畳まれると、押入れに収納された。
 真っ暗だった。
 芳香剤の匂いを漂わせ、俺は押入れに収納されてしまった。
 このままここで、誰にも着られず、終わってしまうのか。
 落ちこんでいると、襖が横に引かれた。
 妻が、折り畳まれた俺の表面を触って点検し、両肩を掴んで広げるとハンガーに両腕を通し、手にぶら下げたまま、居間に運んでいく。
 俺は泣いていた。涙でぐっしゃり濡れたから、乾燥が不十分だと判断された。乾燥が不十分だと、雑菌が繁殖し、臭くなる。それを妻は危惧したのだ。
 ベランダ窓近くのカーテンレールの溝にフックを引っかけ、干される。
 妻がテーブルについた。
 妻の向かいには、上下セットの紺スーツが座っていて、俺に代わって、妻と愉快げに話していて、妻も笑っている。
 俺に成り代わったスーツ上下が、妻を慰め、夫の役を担い、これから妻を支えていくのだろう。
 無力感に包まれた俺は、ハンガーの針金を工作し、幸せそうなふたりを眺めながら、首を吊って死んでしまった。

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