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雑文(38)「彼岸花が咲く頃に」

 母さんは彼岸花が嫌いだ。
 死の匂いがするから、僕にそう教えてくれた。
 昔、たとえば土手沿いに彼岸花がよく咲いていたらしいけど、あれって実は、処刑した死体を埋めていたからで、大衆への見せしめに河原で公開処刑した名残りなんだよ、彼岸花ってさ、地中の養分を吸い上げて真っ赤に咲き誇るのよ、だからね、と、そこまで母さんが言いかけると僕は決まって耳を塞いで、それを見て微笑む母さんを僕はよく覚えている。
 母さんは女の手ひとつで僕を育ててくれた。父さんは母さんが僕を産んですぐに家を出て行ったらしい。でも母さん、僕たちを捨てた父さんを悪く言ったことなんて一度もなかった。僕と並んで縁側に座って昔話みたいに父さんのこと、懐かしそうに母さん話してくれた。
 母さんはいつも家を出る時は派手な化粧と薄手の衣装、それに似合う香水の匂いを漂わせて、僕に晩ご飯を用意して電子レンジでチンしてねとメモを残し、家を出ていく。もちろん母さんが僕を養うのにどんな稼ぎを充てているかなんて養われる僕が訊ねる権利はない。
 母さんはいつも朝帰って来て、それからお昼まで死んだみたいに、服も着替えず化粧も落とさずそのまま寝てしまう。だから俯き寝息を上下させる母さんに掛け布団を掛けるのは僕の役割だったりする。寝言だろうけど母さん、僕が寝室を出る時に、ありがとう、って言ってくれるから、振り返って僕も、母さんに、ありがとう、って言うんだ。
 母さんと並んで縁側に座って僕は、母さんと同じように眺める。母さんはどこか寂しげだ。なにを想っているのか僕にはわからないけど、母さんは寂しげだ。
「だいぶ涼しくなったね」と、母さんが僕を見ずに言う。
「うん。寒いくらい」と、僕も母さんを見ずに前を見て言う。
「そっちはどう?」と、また母さんは僕を見ずに訊ねる。
「みんなよくしてくれるよ。母子家庭って云っても、僕の母子家庭は他の母子家庭とはちがうんだって、笑って話すと皆んな笑ってくれるから、先生まで笑ってくれるから、僕も嬉しくなって笑っちゃうの」
「そう。元気にやってるのね」母さんは僕の顔を見ずに笑った。
 僕も母さんの顔を見ずに笑った。僕らは前を向いて笑っていた。
 母さん、庭を埋め尽くす真っ赤に咲き誇る彼岸花が、それは、彼岸花が咲く頃に、僕らは地中から養分をたっぷり吸い上げて立派に育った咲き乱れる赤い彼岸花の中に、母さんが掛かってきた電話に出るまでずっと座っていた。

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