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雑文(88)「ライティング・ガール」

 貴方が私を馬鹿にするから、だから私は悪くない。悪いのは貴方だけ、私は貴方に騙された、危害を加えたのは貴方だから。
 貴方に騙された私も馬鹿だけど、騙した貴方はもっと悪い。だから貴方は。貴方はだから、私を馬鹿にするから、馬鹿にするから。
 私は貴方の仕事場兼自宅の、清潔で簡素なホテル一室の、貴方が座って万年筆を握って仕事を熟していた、肘掛け付の黒革の椅子に肘を掛けずに座って、書き残した連載締切りの近い白紙原稿用紙の束が載った硬くて重い木の仕事机の前に、若干前屈みに私は座って、机の表面に刻まれた貴方の筆圧の強い独特の書体の、窪んだ痕を時折指先でなぞって、貴方が背中を丸めて執筆する姿を、ベッドに横たわった私が斜めに覗いていた貴方の居た景色を、長々余韻に浸って、貴方を懐かしんでいた。
 才能があるって言葉はお世辞だった、貴方が私に求めたのは才能じゃなくて若さと束の間の休息だった。貴方は私に才能がないのを知っていて、貴方はそれを私に伝えず、私の若さと束の間の休息だけを求めたに違いない。私は馬鹿だった。貴方を信じた私が馬鹿だった。華やかな未来を夢見て私が愚かだと気付かない頃の私は幸せで馬鹿だった。散々貴方に馬鹿にされていたのに馬鹿だった私は貴方の意図を見抜けず貴方に馬鹿にされ続け、才能を浪費した。
 貴方は知らない。私は才能がある。貴方が知らない才能を私は、だから持っているから。貴方の目は欲に眩んで見えなかっただけ。私は貴方の知らない才能を、だから持っているから。だから貴方は。貴方だから、もう知れない。
 貴方の輝かしい実績は目が眩んで近付いて来る、貴方の実績目当ての才能のない人たちも多かったでしょうけど、私は違う。今ならそれはわかる。私はその他大勢とは違う。才能がある。貴方にない才能があるから。ベッドに横たわって貴方を待つ間、私の目はずっと貴方の手を凝視し、私はそれを、筆圧の強い独特の書体、だけど私は才能があるから、上手くやれるから。貴方が見くびった私は、私を見くびったから貴方は。貴方はだから、私をもう見くびれない。
 ワードプロセッサを持たない時代遅れの貴方はタイプライターすら、タイピストすら雇わない貴方は、やはり時代に取り残された過去の人、過去の自著の作品群にしがみ付き、囚われて、貴方はとても可哀相な人、だから貴方は私を、私の若さと束の間の休息を求めたに違いない。きっとそう。私の才能の有無なんて最初からどうでもよくて、貴方に大切だったのは私の若さと束の間の休息だけだった。私が馬鹿だった。貴方の次に。
 私は貴方の万年筆を握った。太くて黒光りする年季のある万年筆だった。何度か試し書きすると手に馴染んで来る感触があり、私の手は貴方の手になった錯覚が、いえ、私の手は貴方の手になった。やはり私は才能がある。だから上手くやれる。原稿用紙を取りに来る日時は机の上に置いた貴方の卓上カレンダーに全てき帳面に書き込んであるから、というか待ち合わせの時間はなぜか原稿を提出する日だから、貴方と編集者の男のやり取りは目に耳にしているから段取りがわかる。完成した原稿をドアの下に半分だけ廊下側に出しておき、時間が来れば時間通り来た編集者の男がそれを屈んで回収し、黙って帰って行くのだ。長年の信頼関係だろう。貴方は原稿の受け渡しを、暗黙上のルールを守るように実施し、終わると椅子に座ったまま背中を伸ばして深めの息を吐き、私に振り返ってお待たせとこの日最初の言葉を私に投げかけ、笑うのだ。
 虫唾が走る。いつまで経っても私の才能を開花させない、しつこくせがめば貴方ははぶらかすか、基礎の基礎を私に繰り返すだけでそれも面倒になって、私に覆い被さるのだ。老境を迎えた客員教授に進路相談をしに来た学生を騙すメディア露出の多い著名な妻子持ちのあの男よりもたちが悪い。
 だから貴方は。貴方はだから、貴方が全て悪い。
 風呂場の浴槽の中で反省を示し首を垂れ、両方の腕を回し折り曲げた両方の脚を抱え込んだ貴方は、私の才能を軽んじた、私が与えた償いだから。
 私の手は、貴方の手は、軽やかに動く。貴方の筆圧の強い独特な書体を真似た文字が白紙原稿の上を踊って、余白は右上から左下へ埋まっていく。原稿用紙を捲り、右上から左下へ埋めていく。癖のある字だけど貴方特有の字だから私は嫌いじゃない。むしろ好きだった。だから私の手にすぐに馴染んだのか。いや私の才能だろう。私は才能がある。貴方に代わってお話を語ることなんて、貴方以上に私はできるから。それが私の才能だから。貴方にない才能だから。
 貴方の腕時計に目をやった。時間はまだあった。けれど原稿はもう仕上がる。やはり私は才能がある。貴方がいなくても私がいれば、貴方の残した財産は私が受け継ぐから、貴方は私がいる以上、私が生かし続け、私が死んだら貴方も死ぬ。これは貴方が受ける当然の報いだから、貴方は拒めない。
 数百枚の原稿用紙に貴方の、いえ、私の、筆圧の強い独特な書体の字が埋め尽くされ、私の書いた筆圧でできた字痕が机の上に、貴方の字を覆うように上から刻まれ、私は片方の口角を少し上げた。
 貴方が私を覆って私を支配するんじゃなくて、私が貴方を覆って貴方を支配するの。
 私は才能がある。
 後もう少しで編集者の男が時間に遅れずやって来る。
 私は背中を伸ばして深めの息を天井に吐いた。
 ただ違うのは。違うのはただ一つ。
 振り返っても、ベッドの上で横たわって私の仕事が終わるのを待つ、待ちくたびれた貴方が、そこに、そこにいないこと。
 私は。私は腰を上げ、ドアの方へ向かうと、ドアの錠を回し、ドアチェーンを外した。ドアは半開きに開けておいた。
 私は席に戻り、深めに腰を掛けた。
 貴方の腕時計に目をやった。編集者の男が直やって来る時刻だった。

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