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雑文(78)「燃費のわるい車」

 燃費のよさは大事だと載っている妻は、車って結局燃費なんだよって、後ろの席に座るこの春高校に入学したばかりの愛娘に賛同を得たくルームミラー越しに愛娘の顔色を窺う。
 愛娘は俯いていたが最新型のスマートフォンから顔を上げるとルームミラー越しに肯いた。
 そうよねえって妻はルームミラー越しに笑い、ルームミラー越しに愛娘は、それと匂いって日本語習いたての外国人が話す片言で口を開き、愛娘はまたスマートフォンに顔を落とす。
 匂いは大事って、お金は大事って話すトーンで妻はルームミラー越しに愛娘を見るが愛娘はスマートフォン画面越しに無言、いや違うな、両手の親指が愛娘の物と思えない速度で動き、スマートフォン画面を凝視しているからきっと画面に通信する彼氏か何かと無言の会話に必死になんだろう。
 燃費、燃費って思い出したように妻は言う。ガソリンさえ入れたら走るから車は燃費よ燃費って妻はまた思い出したように繰り返す。
 ガソリンスタンドに停まった。
 ハンドルから両手を離し、運転席側のドアを開け、妻が車から降りた。
 愛娘はスマートフォンに夢中だ。現実が現実じゃないように。
 妻はこちらに背を向け、カード片手にタッチパネルに向き合っている。
 愛娘がスマートフォン越しに口を開いた。
 お父さんも大変だね。
 それだけだった。が、嬉しかった。妻にできない気遣いが愛娘にできたことが。
 給油口にノズルを挿し、妻がガソリンを入れる。空きっ腹にガソリンが満たされていく。
 新車のパンフレット見てた。愛娘がまたスマートフォン越しに口を開いた。走行距離がどうとか、車検のタイミングがどうとか、妻がたまに独りごちるのを知っていた。
 やだって妻が地面に目をやり、驚いた表情で足元を気にして、ステップを軽く踏んで、踊る。
 愛娘がスマートフォン越しに笑った気がした。いい返事が相手から返って来ただけかもしれないが、なぜだか嬉しかった。
 妻が運転席側のドアを開け、車を出す前にスマートフォンを耳に当て、電話し出した。
 担当者が出た。
 妻は言う。燃費のよい車がいいわ。燃費のわるい車は好きじゃない。それと。妻はルームミラー越しに愛娘を見たが、愛娘はスマートフォンに夢中だ。妻はあきらめ、担当者に付け加えた。匂いのいい車がいいわ。新車だから匂いがいいでしょうけど、車は燃費と匂い、匂いが大事だから。顔馴染みの担当者が妻の意図を察すると一言二言業務連絡して妻を何度か首肯かせると妻は電話を切った。
 車が動く。公道に出た。
 ハンドルを握り、ルームミラー越しに妻は愛娘に、新車よ、嬉しいでしょ? って訊ねるが愛娘はスマートフォン画面から顔を上げず、肯きもせず、年ごろは難しいのよね、私も昔はそうだったわって独りごちたと思えば、嬉しげに笑った。
 ウインカー指示を出し、高速インターチェンジに上ると、三連休の最終日には珍しく空き気味の高速道路をアクセルべた踏みでエンジンふかして加速し、右車線を突っ走る。
 メーターの赤い針が半円右側へ徐々に回り、車体前方が空気圧で加圧される。
 愛娘は速度狂の妻を気にせず、スマートフォン画面を右手中指でスクロールし、大手中古車販売情報サイトに載った車両写真を目で追い、くんくん匂いを嗅ぐように画面を嗅ぎ、スマートフォン越しに、お母さん、免許取ったら中古車買うからって口を開いたが、妻はアクセルを踏んだまま汗ばんだ手のひらで握るハンドルに興奮を覚え、蚊の鳴くような愛娘の伝言が耳に入らない。
 愛娘は今度はルームミラー越しに妻に、言ったからねって念を押したが妻は血走った目で気付かず、愛娘はまたスマートフォン画面に顔を落とした。
 いや、違うな。車両越しに、というか車両に、俺に、集中した妻には聞こえないだろうが、囁いた。
 お父さん、ちょっと待っててね。
 愛娘は俯き気味に笑った。
 俺も過度な空気圧に耐えながら父親らしく笑ってやった。

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