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大塚幸代さんのような記事を書きたかった。そして、イケてる応募作品③

前回は、note創作大賞に落選した人の気持ちになって書いてみたら、最初は「イケてる応募作品」紹介前の添え文のつもりだったのに、妙に筆が滑ってしまい、将来の落選者(つまり、ほとんどのnote創作大賞応募者)に手厳しい内容になってしまった。

上記の記事の結論では、note創作大賞に受賞できなかった人は、noteなんて止めちまえとなってしまったのだが、これはnote公式の見解とは当然違うだろうし、私としても、本当に本意の結論ではない。

ただし、落選という結果を受けて、感情面であまりにもヒートアップしてしまったのならば、そういう人はやっぱりnoteを一度止めた方が良いとも思っている。

実は「イケてる応募作品」を探して、結構な数の記事を読んでみたのだが、
「うーん、noteでの創作はやめた方が良いんじゃないか」
って声を掛けたくなるクリエイターが少なからずいるのも事実だ。

とはいえ、note創作大賞に受賞した記事とクリエイターのみが、noteに投稿する資格と価値があるわけではないはずで、noteの投稿にはもっと可能性があるはずだ。

そんな思いを抱えながら、なぜか私は仕事をさぼってデイリーポータルZを開いていた。


久しぶりのデイリーポータルZ

仕事中にべつやくれいさんの記事をサボって読む

私はずっとネットがつながるPCで仕事をしている。

規約上はもちろんネットの私用利用は禁止なのだけど、それでも、まあお目こぼしはあるものと勝手に解釈して、仕事中の息抜きといえば都合の良い解釈だが、要はサボって仕事とは関係ないネットのサイトを眺めることがある。

仕事の合間であるから、あまり長時間のネットサーフィンはできない。
すると、コンテンツの質に信用あるサイトに絞って見るようになるし、仕事の合間であるからあまり重い内容のサイトも適さない。
となると、デイリーポータルZは仕事の合間の息抜きで見るサイトとしては丁度良かった。

特にべつやくれいさんのマンガエッセイは読みやすくて内容も軽く、息抜きにぴったりだ。

久しぶりにべつやくれいさんを思い出して、デイリーポータルZを見てみる。
べつやくれいさんの絵柄も大分変ったなとか、食に対するこだわりは相変わらずだな、とか思いながら、漫然と眺めていた。

そういえばデイリーポータルZといえば…

せっかくだから、べつやくれいさん以外の記事も見てみるかと、デイリーポータルZのトップページに行って、記事を上から開いて眺めてみる。

しばらく、デイリーポータルZとは御無沙汰だったな。
もう何年だろうか。
10年近く見ていなかったかもしれない。

唯一、松本圭司さんの記事は登山情報として見ていたかな。私も奥多摩の山は良く登るし。
でも、こうやって上から記事を見ていくことは久しく無かったなと、改めて記事を読んでいくが、どうにも琴線に触れる記事が無い。
昔より見やすく解りやすく面白くなったようには思えるが、それは、おもしろいなー、というだけだった。
あれ?デイリーポータルZってこんなだったけ?と自問する。
私が老いたのか、デイリーポータルZの編集方針が無難になったのか。

最近の記事を見るのも飽きたので、昔の記事で記憶にあるものを探して読んでみる。
熊さんのサンノゼシリーズはおもしろかったな。
あと、一人カラオケとかビール鍋とか芋煮会とか。

あれ?サンノゼシリーズ以外の記事って、全部、大塚幸代さんが書いてるじゃん、と改めて気づいた。

大塚幸代さんの記事で思い出深い記事

そういえば昔、デイリーポータルZの記事を読んでいたときに、結局よく読んでいたのは、べつやくれいさんの記事を除けば、ほとんど大塚幸代さんの記事ばかりだった。

改めて調べると、大塚幸代さんは2015年に他界していた。
病気が死因というわけではないようだった。

一時期はあれほど大塚幸代さんの記事を読んでいたのに、9年もの間、亡くなったのを知らずにいたのかと愕然とした。
デイリーポータルZのライターになる前は、クイックジャパンの編集者であったことも初めて知った。
有能で行動的な編集者だったようだ。
仕事を辞めて病気で臥せっていた過去があるのは、デイリーポータルZの大塚幸代さんの記事でなんとなくは知っていたが、以前の仕事内容については出版関係というくらいで詳しくは知らなかった。

大塚幸代さんの経歴を知ったうえで改めて記事を読むと、いかにも厳しい編集部で鍛え上げられた元編集者らしい、細かい言い回しから全体の内容まで、無駄を排した読みやすい、良い文章だと思えた。
加えて、どの記事も例外なくタイトルとイントロがキャッチーだ。
読者の心理をよくわかっている。
訪問レポートの取材がうまくいかないとみるや、知人との会話という形式でうまくやり過ごしているのも、プロの仕事を感じた。

色々と大塚幸代さんの記事を読み返してみたが、私が個人的に大塚幸代さんの記事で最も思い出深いのは、19年前の料理に関するコネタ記事だった。

「炊飯器でつくる蒸し鶏」というタイトルで良いところを、「あの『うまいトリ肉』は作れるらしい」である。
この記事を最初に見たとき、このタイトルだけで、一気に引き込まれてしまい、私はこの記事を見つけた後、すぐに同じように炊飯器で蒸し鶏を作った。

当時の私は彼女に振られたばかりで、一人で暮らしていたから、その日の思い付きで炊飯器調理ができた。

「他に好きな人ができたから、別れてください」と、彼女から突然言われたのは、ほんの数日前だった。
来週はクリスマスという日の夜に、彼女が住む部屋の近所にあるファミレスに呼び出されて、特に喧嘩や言い争いがあったわけでもなく、一方的にこのように告げられた。
クリスマスイブの夜は、今年もまた池袋西武の地下でローストビーフとケーキを買って家でのんびり過ごそうね、なんて話をつい数日前までしていた。
その時の彼女は、クリスマスを一緒に過ごす話に何の躊躇もなく応じていたが、振り返って思い返せば少しだけよそよそしくはなっていた。
私にとっては予告なく背後からバッサリ裏切られたような形だったが、彼女の気持ちを汲み取れば、別れを切り出すまでは良い恋人のままでいたかったのだろう。

それでも、私はその突然の別れを、素直に受け入れるしかなかった。

女性からは振られてばかりで恋愛とは無縁だった私にとって、彼女は27歳にして初めてできた恋人だった。そしておそらく、彼女が世界で唯一私を愛してくれた女性ということになるのだろう。
対して彼女は、大学に入ってからずっと恋人が途切れたことの無い人だった。
およそ私には釣り合わない女性だったから、振られたのは必然で、付き合いが2年以上も続いたのが奇跡だった。

加えて、彼女はうつ病の闘病中だったのだが、それも快方に向かっていて、段階的な復職を進めている繊細な時期だった。
彼女の回復のためにも、無用な衝突は避けなければならなかった。
当時の私は彼女の看病でかなり疲弊をしていたのだが、結局、彼女の闘病の助けになんてなれていなかった。むしろ、彼女のうつ病の原因ですらあったように思う。

彼女は最後に「厳しいことも言われたけど、今まで支えてくれてありがとう」と言った。
「やさしくできなくて、病気のことも理解できなくて、ごめん」と私は返したような記憶がある。

職場でこの「うまいトリ肉」の記事を見つけ、仕事から帰る途中のスーパーで鶏もも肉を買い、部屋に帰ると一人で大塚幸代さんの記事に従って「うまいトリ肉」を作った。

美味しかった。
でも、このおいしさを共有できる人は、もういなかった。
その人はきっと今頃、他にできた好きな人と、笑顔で抱き合っているのだろう。
そんなことを思いながら「うまいトリ肉」をモサモサと一人で食べた。

私は大塚さんのような記事に会いたくてnoteを書き始めた

大塚幸代さんの記事は、どれもまったりとしてグッと心を掴んででくる。

簡潔だけど共感しやすい、心の弱い部分、あまり触れたくない記憶も的確に表現してくる。
何気ない会話を列挙しただけの記事でも、最後まで読むとなぜか貴重な思い出ができたような錯覚を覚える。

でも、心を掴んだら、それで終わりなのである。
掴んだ心を温めたり、揺さぶったり、傷つけたりはしない。
掴んだだけで離してしまう。

物語でいうところの「起承転結」のうち、「起承」で終わってしまう。
記事の末尾にまとめ欄があるものもあるが、読者の心情的には何もまとめてはくれない。

電子書籍のタイトルにもなっている「初恋と座間のひまわり」は、おそらく大塚幸代さんを代表する作品なのだろう。
これは、座間のひまわりを見ながら苦い初恋を思い出して、買い物して、雨に降られて、それで疲れて帰って来て、ビールを飲んで、それで終わりである。
私小説の様でもあるけど、あくまで訪問レポートなのだから、これはこれで良いのかもしれない。
でも、そこまで書いたなら、もっと踏み込んでよ、ドラマチックにしてくれよと思ってしまう。
フィクションでもいいから、その初恋の人に突撃するとかさー。でも今の恋人の方が数倍すてき♥って、読者が「チッ」ってなるオチでもいいよ。

大塚幸代さんの記事はいつだってそう。

この読後感は、思わせぶりな態度は見せるのに、決してこちらの恋心には応えてくれず、こちらの告白の声すら届かない、片思いの恋の様である。
喉元に刃物を突き付けられたのに、結局何もされなかった、虚無感と安心感のようなものかもしれない。

大塚幸代さんの初期の記事を改めて読むと、何か自分の能力や才能に対する未練のようなものを感じた。
直接はどこにも書いてないが、もっと自分はやれるんだ、すごいものを作れるんだという気概と自信と、そして不安があって、そこに踏み込めないもどかしさを影に潜ませていた。
大塚幸代さん自身の体力や精神的なものが、阻害要因だったのかもしれないが、電子書籍版「初恋と座間のひまわり」のあとがきによると、作家やライターとしての商業的なチャレンジは続けていたが、いずれもうまくはいかなかったようだ。

2009年の4月からは、大塚幸代さんのデイリーポータルZの連載も毎週だったものが隔週になり、晩年に近づくほど、記事の内容は次第に薄くなって、プロライターとして無難にこなしただけの記事が多くなったように見えた。

病気を患っていたようで、それが連載頻度を落としたり記事の内容が薄くなった直接の原因なのだろうけど、それよりも「私の記事なんてこの程度で良いんだろ」という、大塚幸代さんのメディアと読者に対する諦念を感じた。
大塚幸代さんの能力であれば、この頃の執筆は流しているだけのようなものだったのではないだろうか。

2009年は前年のリーマンショックを引きずって世界的に不況だったし、2011年には東日本大震災があった。
時代的にも大塚幸代さんのような、どこか影のある、オチも結論もないスッキリしない記事は、ますます求められなくなっていた。
東日本大震災以降に世間が求めていたのは、前向きな応援、正義を振りかざした正論、成功へ導くハウツーや成功譚、心温まる人情話、すなわち能天気なくらいに明るい情報であった。
孤独や絶望を匂わせるものは、とことん排除されたように思えた。
わかりづらい余韻を味わうような余裕は、社会からなくなっていた。
比較的自由な媒体であるデイリーポータルZでも、当時は大手企業に属する媒体であったから、記事の内容についての制約が大きくなっていたのかもしれない。

私は去年の秋からnoteを書き始めた。
なぜ書き始めたのかと聞かれても、漫然と書きたいから、としか言えなかった。

でも、こうして改めて大塚幸代さんの記事を読み返してみると、大塚幸代さんの記事に出会ったときの、もどかしくも静かな感動を、もう一度体験したかったからかもしれないと思うようになった。
デイリーポータルZ初期の大塚幸代さんのような記事は、現代ではどこを探しても見つからなかった。

大塚さんの記事はnote創作大賞で入賞するだろうか

ふと、大塚幸代さんの記事がnote創作大賞にノミネートしていたら、入賞するのだろうかと考えた。

数あるノミネート作品のなかに、無名な作者の未発表作品として「初恋と座間のひまわり」や「お一人様、朝までカラオケ」や「はじめての野宿(ベランダで)」があるのである。

おそらく中間審査は突破するだろう。
しかし、入賞するかと考えると、どうにも怪しいように思えた。

note創作大賞を審査するのは、大手メディアの編集者である。
大塚幸代さんの記事が、現代の大手メディアにコミットされて掲載される様子が想像できなかった。

今の時代に、大塚幸代さんのこれらの記事は尖り過ぎているし、わかり辛いし、暗く悲しすぎる。

では、晩年の記事はどうだろう。
これらは行けそうな気もするが、無難過ぎて読み飛ばされてしまうかもしれない。ベテランらしい安定感はあるが、仮に無名の作者の記事として見たら、キャッチーさも感動も足りない。

冒頭でも述べたが、note創作大賞に入賞しなかったからと言って、それで記事を投稿する意味や価値が無いわけではないと思いたかった。

大塚幸代さんの記事は入賞しないだろうなんて、天国にいる大塚幸代さんには失礼な話なのだが、大塚幸代さんのような記事こそが、入賞して多数の読者に受け入れられる記事にはなれなくても、それでも価値のある記事なのかもしれない。

そして、自分の魂を少しずつ削って、傷ついて倒れている人の肩にそっと不器用に手を添えるような、そんな貴方の文章が好きでしたと、天国にいる大塚幸代さんに伝えたいと思った。

イケてる応募作品

今回は小説部門からイケてる作品を探してみたのだが、小説は選別が難しい。

アマチュア作家向けの小説マニュアルというのが世間には出回っていて、小説を書こうという作家志望者は、当然そのようなマニュアルを熟知した上で作品を作る。
なので、note創作対象にエントリーをするような小説作品というのは、大抵は小説としての形式的な体裁は整っている。

それでもよく読んでいくと、設定が時代とあっていないとか、描写内容がよくわからないとか、内容のない会話が続くとか、そのような作品の入選は厳しいだろう。
要らん事は書かないというのが、小説においても重要なのかもしれない。

その中でも、タイトルがキャッチーであったり、冒頭から一気に読者の心を掴むような作品があれば良いのだが、なかなかそういう作品は見あたらない。
おおむね、スキの数が多い(第一話で100件以上)作品は一定の品質にあるのだが、それを挙げてみても面白くないので、スキの数が少ないものの中から、力作・佳作を拾い上げてみた。

ファンタジー小説部門

「竹取物語」が最古のSFという説もあるようだが、そもそも、戦前日本の文学界にファンタジー小説なるジャンルは存在していなかったはずだ。

これは、小説というコンテンツに空想世界などけしからんという風潮があったわけでもなければ、ファンタジー小説というジャンルを誰も開発しなかったのでもなく、小説という表現形式で空想世界を読者に説明して、作品として成立させるのが無理だったからだと思われる。

たとえば「魔法」と一言でいっても、現代人であればドラクエに端を発するゲームプレイ体験によって「魔法」についての説明を延々としなくても、読者は「魔法」がどのようなものかを容易に想像できる。
これが、「魔法」という概念が存在しない時代に「魔法」と小説の中に取り込もうとしたら、まずは「魔法」とは何かを小説の中で延々と説明しなければならない。

現代の我々は、小説以外のコンテンツによって、SFなり、剣と魔法なり、戦国時代なりの世界観を知っている。少ない言葉だけでもイメージを連想できる。
その前提があって、ファンタジー小説は成り立つものと思われる。

この読者と共有している空想世界観を、どの程度上手く活用できるかが、ファンタジー小説の要ではないだろうか。

中世ファンタジーものだが、剣と魔法の世界というわけでは無いようだ。
長編で全部読んだわけではないが、冒頭で話が破綻をしていないので選んだ。これだけでも、エントリー作品のなかでは結構珍しいのだ。

あらすじの冒頭「平穏の研究をする父と、人形技師の母を持つ少年が主人公。」という表現だけで選んでみた。
「平穏の研究」ってなんやねん!と突っ込みたくなるが、この不思議表現自体が作品中の謎となるので、読者はこの小説を読み進める動機になるだろう。

ホラー小説部門

ホラーというジャンルはやりつくしたようで、まだまだネタはあるのだろうか。

匿名掲示板でもホラー話のネタは溢れているから、贋作になっていないかの注意も必要だ。
小説のホラーは、結局、読者の度肝を抜くような見たことのないアイデアが勝負のように思える。

あるいは、文章表現ゆえの怖さを狙うのだろうか。
ゲームで世界がループしたり違う世界へ飛ばされるのはあまり怖くないだろうけど、文章表現であれば怖さを出せる可能性がある。
そのような文章表現の可能性を探るジャンルなのかもしれない。

あと、なぜかホラー小説部門にノミネートしている作品は、応募規定を満たしていない作品が多かった。(文字数、あらすじ)
読者を驚かせるのが要であるホラー小説で、あらすじを冒頭に書くのは難しいのだろうけど、ここはクリアにしておきたい。

ホラーだけではなく、エロ要素があるので注意。
それでも、冒頭の語り口はおどろおどろしいし、(偉そうな言い方だけど)全体的によくできた物語なのだと思えた。

こちらもエロ要素あり。
ホラーと言っても男女の絡みを入れた方が、怖さも増すのだろうか。
全編にわたって手紙による独白調なのが珍しいが、こちらもよくできた佳作だと思う。

恋愛小説部門

恋愛小説は純愛でも悲恋でも、プロットより細部の言語表現の美しさが勝負どころであるように思える。

川端康成の「雪国」なんて、プロットだけではクッソつまらないけど、それでも日本文学の最高峰の一つに違いないだろう。
「冷静と情熱のあいだ」も、プロットは浮気を礼賛しているだけのものだが、やはりこれも細部の表現で作品の価値を高めている。

もちろん、肝心のプロットが破綻していないことは、大前提ではあるが。

地の文が主人公の独白になっているのが珍しい形式。
これを受け入れられるかどうかがこの小説を評価する肝だが、青春らしさの演出としては良いように思える。

この記事を書いている時点では未完作品。
女性向け風俗と中年女性の恋愛という、シチュエーションが珍しい。
「大阪城は五センチ」というタイトルが内容とどうつながるのかも見もの。


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