大阪城は五センチ《 1 》 【創作大賞2024】
脱いでいた服を身につけた後は、宇治のそばにいる資格をすっかり剥奪されたような気持ちになる。
バスルームに水の音が響くのを聞きながら鏡台の前に立ち、クリーニングしたてのスラックスをしっかり引き上げ、新品のセーターの裾を整えた。申し訳程度に眉を書き足し、色付きの薬用リップを塗っただけのささやかな顔が、鏡の中から心配そうにこちらを見つめ返してくる。励ますようにショルダータイプのスマホケースを肩から掛け、カバーの内側に挟んである一枚のカードに、ケース越しに手を当てた。自分の顔と小さく頷き合い、ついでに歯を剥きだして、前歯にリップがついていないことを確かめる。
正月価格で跳ね上げられた大人二名分の宿泊料金に怯みながらも、一周年だからと奮発して、今日は大阪城の見える部屋を取ったのだった。
窓のそばに置かれた椅子に掛け、ずっしりと垂れるカーテンの割れ目に指を差し入れる。そっと開いて顔を寄せると、朝から鉛色に撓んでいた空の底がとうとう抜けて、いちめんぶちまけられるように白い雪が降っていた。広大な都市公園の歩道に、堀を囲う木々に、ホテルの際を流れる川面以外すべてにうすく雪が積もり始めている。
大阪城が雪に霞んでいるのを見てほんの少しがっかりしながら、手のひら一つ分カーテンを開いた。日の翳り始めた冬の街には、風も強く吹いているらしい。五百円硬貨ほどのかたまりになった雪が激しく吹き流れていくのを眺めながら、この中を宇治がさむざむと駅に向かうさまを想像したら気の毒になり、
「帰らせたくないなぁ」
思わず独り言ちて、はっとした。
今のは延長したいって意味じゃなくて。言いながらあわてて振り返ると、片方のベッドだけを乱したツインルームの向こうで扉が開き、きょとんと微笑んだ宇治が顔を出した。
「うわ、めっちゃ雪ふってるやん」
はしゃいだ声が部屋に響き、水滴のところどころ拭い切られていないまま宇治が走り寄ってくる。聞こえなかったのか、それとも聞き流してくれたのか。うろたえて体がこわばりそうになったけれど、緊張していることがバレてしまうと、それを解くのが仕事である宇治に余計な気を遣わせてしまう。努めて平然を保ちながら笑み返し、外の景色がよく見えるよう、カーテンをさらに開いてみる。
「これ積もるやつやで」
上背のある細い体にパンツだけきちんと身に着けて、嬉しそうに宇治が言う。窓外を無邪気に見晴らす姿を見上げながら、(上等な子やなぁ)噛み締めるように思い、面長のやさしい横顔を見つめた。宇治の顔は、マレーバクによく似ている。
「吹雪きやん。すご。外堀らへんから向こう、何ッも見えへん」
「降り始めんのは夜って、天気予報で言ってたのに」
「なんかいつもと違う街って感じ。おれ雪だいすき」
「なんで雪降ると景色が灰色っぽくなるんやろ。全体的に色が薄くなるかんじせえへん?」
「うん確かに。白黒テレビみたいや。ユヅルさんなつかしいやろ?」
「カラーテレビです、生まれたときから」
甘やかなもので胸をいっぱいにしながら反論する。年の差をからかわれたのに、かえって宇治の近くに引き寄せてもらったような、恍惚とした気持ちになっている。よろこんでいるのがきちんと伝わったのだろう、振り返って笑う宇治の顔が満足そうだったので、わたしのほうも安堵して椅子に深く掛け直した。
マッサージで使ったバスタオルをたたんで脇に寄せ、ベッドを簡単に整えた宇治が、バーコーナーでお茶を入れるさまを見物する。
宇治が姿勢よく紅茶の封をきって、ゴミをきちんとゴミ箱に捨てるのを見るのはたのしい。湯の沸いた電気ケトルのスイッチを真顔で入切する宇治が、その操作が無用であることに気づいてケトルを傾け、はればれとカップに湯を注ぎ始めるのを見るのはたのしい。
両手にそろいのマグカップを持って宇治がこちらに戻ってくると、寝そべらされていたときよりもよっぽど、体のすみずみまで潤んでいくような心持ちになった。差し出されて手を伸ばし、受け取ったカップにくちびるをつける。猛々しいアールグレイの湯気が、勢いよく押し寄せる。
宇治と月にいちど、二時間会うようになって、一年が経つ。
予約は女性向け風俗のアプリから取る。夜の時間帯にサービスを受けるのはいかにもと言う感じがして何となく恥ずかしく、若くて身綺麗な女性客が利用しているような気もして腰が引けてしまうので、予約はいつも日中を選んで取っている。店舗は構えられておらず、施術は客の指定したホテルで受けることになっている。
セラピストと呼ばれる男性キャストたちのプロフィールページを見てみると、宇治の顔には磨硝子のモザイクがかけられていて、わたしよりも十歳下、二十九だと書かれている。さだかではないけれど、さだかなものをわたしが知る権利はない。宇治の本当の歳も、連絡先も、家も、名前も、さだかなものは何も知らない。知らないから、わたしたちには最初から、隔たりのようなものも無い。
関係を構築するために必要な工程を全て飛び越えて、世界から遮断された一室で宇治とふたり、昔からずっとそうしてきたような顔をしてのどかにお茶を飲むのはたのしい。正面に見える大阪城ホールの平たい屋根の、天守閣と同じやわらかなみどりいろが、刻々と白に覆われまだらに沈められていく。息を吹き吹き紅茶を飲んでいた宇治が、ふと雪景色から視線をこちらにうつした。
「あ、そういえば。こないだユヅルさんが教えてくれた辛辛魚のカップラーメン食べたで」
「ほんま? 辛かったやろ」
「めっちゃ辛かった。最高」
「わたしは、あかんかったわ。あれは具合悪くなる辛さ」
「後入れの辛い粉、どんくらい入れた?」
「入れてへん。入れんでも充分辛いやん」
「入れな。全部入れな」
「無理やって、さすがに食べれんくなる」
「その壁を超えていくのがたまらんねん。激辛食うのって、ほとんどスポーツやもん」
「なんやそれ。意味がわからん」
笑いながら、しがみつくようにマグカップを握りしめる。
辛い物が好きだと宇治が言うので、普段は買わない激辛のカップラーメンを食べてみたのだった。わたしの薦めたものを、宇治が選んで買って食べたのだと思うとほんの少し気が大きくなって、
「じゃあ次は全部入れるわ。食べれんかったら、宇治が食べてや」
精一杯冗談めかして言ってみると「食うよ、ぜんぜん食うたる」あっさりと明るい返事が返ってきた。この時間がいちばんいい。ほとんど眩暈を起こしながら思っていると、ようやく冷めたらしい紅茶を一息に飲み干して、宇治が立ち上がった。
「ああ美味しかった。ほな行くわ。ユヅルさん、今日もありがとう」
椅子に掛けたまま宇治に手厚く抱きしめられて、二時間の終わりは告げられる。くびすじからボディーソープのにおいのする熱が放たれているのを感じて、
若い。
思いながら目を閉じた。宇治を抱きしめ返す勇気はない。
冷めた紅茶をちまちま傾け続けるわたしの横で、スーツにてきぱきと手足が通され、腕時計の留め具の噛み合う音が短く鳴った。セラピストは本職の合間を縫って、副業でやっているのだという。三が日明けの土曜が仕事始めになるのは、どんな職種なんだろう。考えながら、すっかり全身を整えた宇治を見送るため、マグカップを置いて立ち上がる。
「じゃあねユヅルさん。今年もよろしく。また連絡してね」
ドアの前で温かく頭を撫でられると、うんまた連絡するわ。するりと次の約束が口からこぼれた。手を振り合いドアを閉める。鍵の自動で掛かる音が響くのを聞きながら「また、予約するわ」自分に言い聞かせるようにひっそり訂正して部屋に戻り、使っていないほうのベッドに寝そべった。
最初からゴールに連れてきて、そこに住まわせ続けてくれるのが、セラピストという人たちなのだ。だからこの関係に変化や展開は必要ない。というより、そんな要素があってはいけない。恋をした人がするように関係を進ませていこうとすると、ゴールからふりだしに続く道を、逆走するより他なくなってしまう。
高い枕に頭を埋めながら、白を基調とした天井をぼんやり見上げる。自分の首回りから、宇治のまとっていたものよりも温度の低い、サボンの香りが漂ってくる。バスルームで丁重に洗われて、ベッドにうつぶした背中やふくらはぎを正しくほぐされて、その後いいようにしてもらった体がまだじんわりと痺れていた。いつも冷えている足先にぽかぽかと熱がこもっている。寝そべったまま靴下を脱いで、ベッドの脇に放り落とす。
性欲の高まる排卵日に無事に深い満足を得て、あとは穏やかに晩年を送るような心持ちで、生理を待つばかりだった。風俗を利用してから生理を迎えるまでの期間は、何をしても太る上に肌荒れもするので、気の向くままに不摂生をして伸びやかに過ごすと決めている。
前触れなく強烈な空腹を覚えて、ベッドから起き上がった。
チェックイン前にコンビニで買ったビールとミミガーを冷蔵庫から取り出し、中身の入ったマグカップがひとつ残されたサイドテーブルに並べ置く。椅子に座り、あぐらをかこうとしたらスラックスが突っ張ってじゃまくさい。その場で脱ぎ、ついでにセーターも脱いで、部屋に用意されている浴衣に着替えた。
今度こそ椅子の上であぐらをかき、脱ぎ散らかした服を横目にビールのプルタブを引き上げる。
淡い水色のセーターは、先月の生理が明けた頃に、梅田で買ったものだった。ファッションセンスに自信がないので、宇治に会う日はせめて清潔なものを身につけようとユニクロに行き、なるべく高くて上質なものを購入するのが習慣になっている。
同じ日に白髪を染め直すとすっかり気分が高揚して、そこからの一週間は別人のように食事や美容に気を使うターンとなる。ときめきながら早寝に努め、ビタミンやコラーゲンのサプリメントを見境なく飲み、満を持して排卵する頃ちょうど予約日がやってくる。
なんか、心というか、ホルモンサイクルを奪われてるかんじ。
思いながら箸を割り、ミミガーを鷲掴みにしたところで肩から下げていたスマホが震えた。カバーを開き、ディスプレイに表示された名前を確認してカバーを閉じ、何ごともなかったかのようにミミガーを口に放り込む。知らんふりを決め込んでビールを流し込んだけれど、ごくごくと半分飲み干してもまだ、スマホはしつこく唸り続けていた。
「なんやねんな」
呟きながら仕方なく缶を置き、通話ボタンをタップする。
大阪城は五センチ《 2 》
https://note.com/yomosugararip/n/n701ce06bdc71
大阪城は五センチ《 3 》
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大阪城は五センチ《 10 》
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大阪城は五センチ《 11 》
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大阪城は五センチ《 最終話 》
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