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大阪城は五センチ《 3 》 【創作大賞2024】
《1》《 2 》《3》《4》《5》《6》
《7》《8》《9》《10》《11》《最終話》
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多部ちゃんのコートはショッキングピンクなので、遠くからでも見つけやすい。
駅前の灰色じみた風景の中で、宝くじ売り場と同じくらい目立っている彼女に「多部ちゃーん」改札を出てすぐに声を掛けた。こちらに顔を向け、目を細めて睨みつけていた多部ちゃんが、わたしだと気付いて小さく跳ねて、胸の前で手をすばやく振る。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとう多部ちゃん、休み何してた」
「生まれて初めて、デパ地下の初売りに行ってきました。ええお肉食べようと思って」
「買えた?」
「気付いたら八つ橋とメロン買ってました」
「肉は」
「気ぃ狂いそうなくらい混んでて、自分が何の列に並んでんのか、何の整理券持ってんのか、途中から分からんくなるんですよ」
駅から出た他のひとたちと同じように、のそのそと神社へ流れていく。初詣に誘ってくれたのは多部ちゃんだった。わたしが参拝の習慣を持たないことを知って目を丸くした多部ちゃんが「正月って、お祭りのときより屋台出るんですよ。チャプチェとか回転焼きとか、冬に食べるほうが美味しいんですよ」諭すようにそう言って、一緒に行きましょうと予定を合わせてくれたのだ。
多部ちゃんとは五年の付き合いになる。
彼女が入社した当初は顔見知り程度の関係だったのが、五年前にわたしの部下として配属されてからは急速に仲を深め、今は映画を見るのも温泉に浸かるのも、多部ちゃんとばかり楽しんでいる。
去年の夏の終わり、わたしの誕生日には、瓦割り体験を贈ってくれた。
わたしはひと突きで八枚、多部ちゃんは九枚の瓦を割り、「十枚は割りたいところですね」と体験チケットを追加で買い、二度目は十二枚も割ってうれしそうだった。十年前なら、わたしも二枚目のチケットを買って、十枚越えを目指して瓦を叩き割りにかかったかもしれない。若い、という言葉を彼女が嫌がるので口には出さなかったけれど、割れ散らかる瓦を満足そうにスマホで撮る多部ちゃんは、眩しくてかわいかった。
多部ちゃんは来月で、二十九歳になる。
誕生日に食べに行きたいと言っている、牡蠣やら白子やらが目一杯つめこまれた痛風鍋の店は、そう言えばこの神社の近くだったと思い出す。歩いていたら見つけたのだと話していたけれど、こんなところに何の用事があったのだろう。
鳥居をくぐり、前を歩くひとたちの黒々とひしめく後頭部を眺めていてもつまらないので、屋台の横断幕を見て歩いた。
ジャガバター。ベビーカステラ。ボールスクイ。
カタカナばかりが並んだあとに、「どんぐりあめ」とひらがなが続いたので、なんとなく嬉しくなって、参拝を待つ人々の列から抜け出し飴を買った。
色とりどりの飴を、ほとんど押し付けるようにして多部ちゃんと分ける。三つずつ食べきったところで手水舎についたので、見よう見まねで両手を清め、サイダーくさい口は特に清めて、本殿に続く階段をぞろぞろとのぼった。
「お参りのとき、自分の住所と名前も言うといいらしいですね」
「え。だれに言うの」
「かみさまに」
参拝の順番を次に控え、真面目な顔で多部ちゃんが言う。わたしたちの前で念入りに拝んでいた中年の夫婦が、ようやく顔を上げて列を抜けた。進み出てお賽銭を転がし、礼をして柏手を打つ。
かみさま、八木由鶴です。
自分の名前を紹介し、胸の内に住所をつらつらと浮かべ終わると、ぼんやりとしてしまった。三十五を過ぎたあたりから、願いごとは年々、薄くなっている。叶わないことは願わなくなり、叶いそうなことのほとんどは、すでに叶ってしまったのだ。
靄がかる頭にさっきの夫婦の姿が浮かぶと、神前で呆けていることが後ろめたくなってきた。こっそり薄目を開けると、多部ちゃんも、その隣の家族も外国人も、皆眠るように拝んでいる。新しい年だからと神社に足を運び、長い列にこんこんと並んだ末に一体どんなことを願っているのか、聞いて回りたい気持ちに駆られた。叶わないことと叶うことだったら、どちらを願うのが神様の公式なんだろう。
微動だにしない人々から視線をそらし、もう一度目を瞑る。うっかり宇治の顔が浮かんでしまったので、(かみさま。たまたま表示されてしまっただけで、願っているわけではありません)心の中できちんと伝えて、照明を絞るように、まなうらの景色をゆっくりと暗闇に戻す。
参拝を済ませて、おみくじを引くと小吉だった。
恋愛は思い通りにならぬ、とある。転居はさわぐな、とある。パッとしないのでてきぱきと木に結ぶと、お神札売り場から多部ちゃんが戻ってきた。
「おみくじどうでした」
「小吉」
「パッとしないですね」
「待ち人来ず、やって。ざんねんやわ」
「ふぅんそうですか。由鶴さん、わたしに言わへんだけで、去年あたりからええ人いるような気がしないでもないですけど」
「……おらんて。そんな人おったら、クリスマスに女同士で蕎麦打ち体験とかせえへん」
「まぁそれもそうですね。あの蕎麦おいしかったですね」
「多部ちゃんはごちゃごちゃと何買うてきたん」
「おふだです。神棚と、玄関と、台所用とで三つ。あと破魔矢も」
「どうしたん急に。誰かに呪われてんの」
訊きながら紙袋をのぞきこむと、羽子板ができそうなくらい、丈夫そうなお神札が入っていた。ささっている破魔矢もずいぶんと豪華そうに見える。売り場に張り出されている料金表を確かめると、他二枚のお神札も合わせて、合計二万円だった。倹約家であるのに珍しい。思っていると、真顔でうつむく多部ちゃんの、ものものしい顔から突然「もふっ」と笑い声が洩れた。
「由鶴さん、おどろかせていいですか」
「いいよ」
「わたし家買いました」
「え」
「二千五百万で買いました」
「ええっ、なに、ええ?」
「どうしよう、家買いましたって言うの、めっちゃ興奮する。んふぅ、もう一回言っていいですか、わたし家買いました」
「多部ちゃん、ちょっと待って、なんか動悸してきた。え、どこに買ったん」
「こっから歩いて五分のところです。来ませんか」
誘われて、後ろから頭をはたかれたように頷いた。にわかに吹き抜けた北風に身震いして顔を上げると、古札を焚き上げる炎が大きくのけぞり、見ていた人たちが拍手をしている。泳いでいるひとの足首に巻きついたワカメのような、ゆらゆらと定まらない足取りで、案内されるまま家に向かう。
◇
多部ちゃんの新居は、製氷器を立たせたような外観をした、十階建てのマンションだった。
すごい。すごい。と連呼しながらマンションのエントランスに入ると、大きな壺から南天が噴き出し、見上げる高さの竹が三本ささり、松は枝ごと生けられている。
圧倒的な存在感を放つ正月の生け花を前に「これ写真撮ってもええかな」とスマホを出すと、わたしも昨日撮りましたと待ち受け画面を向けられた。写真は夜に撮ったものらしい。乳白色の光を三方向から浴びた生け花は神々しく、壁面に設置されたマンション銘板も、明かりの灯ることでさらに箔が付いて見える。
少しでも豪華に映るよう奮闘しながら写真におさめ、多部ちゃんに見せると口元に子どもみたいな笑みが浮かんだ。オートロックが解除され、大人同士で肩車をしても入って行けそうな巨大な扉が、ごうごうと左右に開かれる。
エレベーターホールに進むと、こちらはしっとりと小暗かった。
小ぶりではあれど正月の花がまたしても生けられ、香の焚かれた匂いまでする。屋台で買った焼きそばとたこ焼きの入ったビニール袋の口を、握るようにして持ち直した。ソースの匂いがなるべく漏れないように気を使いながら、真新しいエレベーターに乗る。多部ちゃんの家は、四階の角部屋だった。
「先月の始めに母が来て、大晦日にトモリが来て、ふたりにも勧めたんですがじゃまくさいからいらん言われて、まだ新品です」
ぬいぐるみのようなユニコーンのスリッパを並べながら多部ちゃんが言う。冷えた足をスリッパにありがたく入れて、もこもこと廊下を進んだ。リビングに続く扉が開かれると、とってつけたような北欧風のインテリアで、部屋はさっぱりとまとめられている。
多部ちゃんの一人住まいのアパートに所狭しと並んでいた、派手で奇抜な家具や家電は一掃されてしまったらしい。
見知らぬ人の家に上がったような気持ちでリビングに足を踏み入れ、ふと角の生えたスリッパに目を落とすと、たてがみの虹色が翳っていた。ベランダに続く窓のしっかりと大きいわりに、部屋はずいぶんと青暗い。多部ちゃんが電気をつける。
「北向きなんです。それでちょっと安かったんです」
暗いと思ったことを見透かされた気がして、どきっとしながら顔をあげた。カウンターキッチンの照明を脳天に浴びた多部ちゃんが、四角にくり抜かれた壁向こうから地縛霊みたいな顔色でこちらを見ている。
めっちゃいい家。いそいで声を掛けて、手を叩こうとしたけれどソース臭いビニール袋が邪魔だった。ダイニングテーブルの端に置かせてもらい、心を込めて拍手をする。
「おめでとう。圧巻やわ。ほんまに、おめでとう」
「ありがとうございます。由鶴さん、そこ座って」
「家のこと、なんで黙ってたん。さみしいやん」
「すいません。言わんとこうって思ってたわけじゃないんですよ。クリスマスに会うたときも、ほんまは言うつもりやったんです。でも言えんくて。高い買いもんして、こわかったんです。ビールでいいですか」
頷いて着席すると、膨らみかけた半月が描かれたビールの缶と、ガラスの薄いコップが並べられた。ようやく多部ちゃんの家であることが感じられて、こっそりと安堵する。よなよなエールは昔から冷蔵庫に常備されている、トモリくんの好きな銘柄だった。トモリくんには、何度か会ったことがある。小柄で人懐こくてお酒をよく飲む。多部ちゃんとは、学生時代からの付き合いだと聞いている。
「トモリくん、家見て腰抜かしたんちゃう?」
「近未来やハイテクノロジーや、言うて、家じゅうのボタン押して回ってました」
笑いながら言って、多部ちゃんが大きな音を立ててプルタブを起こした。コップに注がれた琥珀色のビールに、固く細やかな泡が立つ。お酒を一切飲まないのに、多部ちゃんはわたしよりもよっぽど上手にビールを注ぐ。
同じ形のコップに麦茶が注がれるのを待って、「新築にカンパイ」ささやかにガラス同士を触れ合わせると、くつろいだ笑顔が返ってきた。
思えば、二十代で家を買うと、多部ちゃんは初めから宣言していた。経済的に不安定な環境で育ったのだと言う。十六歳のときにはすでに、購入の計画をたてていたらしい。
授業料を抑えるため国立大学へ進学し、給与よりも家賃補助の福利厚生を重視して就職した後は、倹約して頭金の貯蓄に努め、住宅ローンの説明会に足繁く通って、粛々とそのときに備えていた。
いつかトモリくんと三人で飲んだ席で、「僕の方はずっと同棲を希望してるんですけど」と苦笑いで聞かされたことがある。
後日、トモリくんとの結婚は真剣に考えていると多部ちゃんが漏らしたので「じゃあ家はふたりで買えばいいやん」とわたしが言うと、それはまた別の話なのだと即答され、よく分からないけれど多部ちゃんはえらいと思ったのだった。
「この薄いコップ、ええなぁ。ビールがおいしく感じる」
「新築祝いで母から。うすはりって言うらしいです」
「家買って、おかあさん喜んではるやろ」
「逆です。ひとりでローンを払いきれるんか心配みたい。結婚出産のときはどうするん、とかなんとか」
「多部ちゃんなら上手いこと行くよ。頑張って」
「ううん由鶴さん、わたしもう頑張りませんよ。ローンは払いますけど」
「え」
「家買って、やっと自分の人生を、自分のやりたいように始められる気分なんです」
麦茶のコップを置いて、多部ちゃんがビニール袋から焼きそばを出す。皿いりますか、と訊かれて首を振り、たこ焼きのパックを引き寄せ輪ゴムを外した。一膳ずつ手に取った割り箸を、ほとんど同時に音を立てて割る。
「未来を描く、ってよく言うじゃないですか。あれ、ほんまに描こうと思ったら鉛筆と紙がいるでしょ。わたし、家って、紙みたいなもんやと思うんです。紙が無かったら、どんだけ頑張って描こうと思っても、鉛筆、って言うか書くもんが空中でうろうろすると言うか」
注意深く言葉を選びながら話す多部ちゃんの声が、いつもより少しだけ高い。緊張しているのだと分かって、わたしの方も箸を持つ手が固まった。きちんと聞いていることが伝わるよう、大真面目に相槌を打つ。
「紙以外のものに描ける人はいてると思います。でもそれは特別な人やと思います。わたしみたいな普通の人間が、紙も渡されんとただ『自由に描け』言われても、鉛筆の使い道が無いんです。それに、そういうこと平気で言ってくる人ってだいたい、生まれたときから紙を持ってるんですよ。わたしの『描けへん』と、紙を持ってる人の『描けへん』は、言葉は同じでも意味が違うんです」
思いがけず、多部ちゃんが箸を伸ばしてたこ焼きを取り、視線をパックに落としたまま口に運んでむしゃむしゃと食べた。同じ動作を行ったほうがいいような気がして隣のたこ焼きを箸で掴み、わたしのほうは多部ちゃんを見つめながら、ゆっくりと噛みしめる。
「書くもんは持ってんねんから、わたしやって描きたいんです。子どもの頃から紙がほしくて、ほしくて、ずっと走ってきて、ようやっと立ち止まれました。鉛筆の先が紙の上にさわってるのが分かるんです。家買うのこわかったけど、生まれて初めて、いまホッとしてます。自分が何を描きたいんか、ようやっと、考え始められるんです」
多部ちゃんが顔を上げて、こそばゆそうに口を結んだ。ほんまに、おめでとう。ほとんど無意識に呟くと、嬉しそうに二つ目のたこ焼きを頬張りながら「そうや。林檎もあるんです」もごもごと言って、多部ちゃんが席を立った。
カウンターキッチンの向こうから、林檎の丸く剥かれていく、さりさりとなめらかな音がする。
コップのビールを飲み干して、所在なく窓に目を向けた。風は吹き込みにくいのか、まっさらな物干しに掛けられた洗濯物は、どれも死んでしまったように大人しい。清潔な木材とビニールとゴムの入りまじった、むせかえるような新築の匂いを嗅ぎながら冬晴れの空を眺めていると、
「由鶴さん見て」
呼ばれたので振り返った。手招かれてキッチンに行くと、シンクでとぐろを巻く林檎の皮と三角に切り落とされた種部分を、多部ちゃんが排水溝にかき集めている。ふたをすると、モーター音がし始めた。水道の水を流し「三十秒です」多部ちゃんが言うので、よくわからないまま頷いて、胸の中で数をかぞえてみる。
二十八、と思ったところで音が止んだ。
水をとめ、ふたを開けると皮と種が消えている。え。思わず声を漏らすと、静かに興奮した顔で、多部ちゃんがわたしを見た。
「ディスポーザーです」
「すごい」
「生ごみを粉砕して、流してくれるんです。貝殻もいけます」
「へえぇ、すごい」
さっと手を洗った多部ちゃんが、まな板に並んだ林檎を食べ始めた。どうぞ。勧められるまま、わたしも手づかみで林檎を取る。真新しいシンクを見下ろしながら、立ったまま黙々、蜜のたっぷりと染みた林檎をふたりでかじった。
「おいしい林檎やな」
「長野のです」
ふたくちで食べ切った多部ちゃんが、まな板のかげに落ちていた、三角の切れ端をつまみ上げる。わたしが排水溝のふたを開けてみると、すぐに切れ端は放り込まれ、蛇口から水が流された。
サラダ油だけがポンと置かれた殺風景なコンロの横に、箱の封が切られた八ツ橋があるのが目に入る。八ツ橋と一緒に買ったメロンは、ひとりで食べたんだろうか。贅沢に切り分けた、よなよなエールの月みたいに幅広いメロンの皮を、多部ちゃんはひとりディスポーザーに押し込んだんだろうか。
排水溝のふたを閉める。身じろぎもせず、林檎の切り刻まれてゆく音に、ふたりで耳をかたむける。
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