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足利直冬紀行④~九州探題編~

あずかり知らぬところで自分の地位が大きくぶれる


今回の訪問地

新幹線で熊本へ

のぞみ17号の発車案内板

2024年6月22日土曜日、私が乗るのぞみ17号は8時30分の定刻通りに東京駅を出発した。

今回はタイトルに九州探題とある通り、訪問先は九州である。
関東から九州を訪れるのであれば、新幹線より飛行機を使った方が断然に早くて安いのだが、事情があって新幹線で九州まで行くことになった。

わざわざ新幹線で九州まで行く事情とは、なんてことは無い、寝坊をしたのである。

本来であれば、羽田空港6時20分発のスカイマークで福岡まで行く予定でチケットも購入済みであったのだが、目が覚めたら時刻はすでに6時10分。
4時40分に自宅近くのバス停を出発する羽田空港行バスに乗るつもりだったが、その時刻はとうに過ぎてしまった。冷静に考えれば6時10分というのは、バスがどうのこうのではなく、とっくに羽田空港でチェックインを済ませて搭乗口前にいるか、機内の席に収まっているはずの時刻である。
予約した格安の航空チケットは振り替えが効かないルールであるから、こうなってはどうしようもない。飛行機による福岡までの移動も、航空運賃も諦めるしかなかった。
行きの移動と航空運賃は諦めるにせよ、その後のホテルや帰りの新幹線についてもすでに支払済みで、これをどうするかという問題が残った。
新幹線の方は全額ではないにせよまだ払い戻しが効くが、ホテルの方は当日キャンセルでは全額支払いになったはずである。これらをすべて諦めて旅行を中止するか、強引にでも旅行を決行するかを決めきれないまま、とりあえず、寝ぼけ眼でシャワーを浴びて荷物をまとめて家を出た。

東京駅地下の待合室に合った、寝台特急の展示

そもそも、今回の旅行はあまり気乗りのしない、もっと率直に言えば行きたくない旅行であった。
今回も例によって足利直冬のゆかりの地を訪れるのだが、今回の訪問地はどれもつまらない児童公園とか道端に石碑があるだけとか、そんな場所ばかりである。
花山法皇のゆかりの地を訪問していても、地方の呆れるように寂れた小さい寺社を訪問するためだけに何万円も使ってしまい、これらの自分のバカバカしい所業には呆れたものだが、今回はそのような寺社すらない。
歴史的にはどうであれ、今はなんてことも無い児童公園のために、週末を潰して大枚はたいて九州まで行くのは、自分がバカだという自覚はあるが、それでも余りに愚行が過ぎる。

8時前の東京駅地下はまだどこも開店していない

さらに言えば、二週間前に風邪をひいて以来、未だに体調が回復していない。
新型コロナの検査は陰性であったが、普通の風邪とは思えない酷いのどの痛みが10日近く続き、今でも喉に違和感がある。
加えて、風邪をひいて以来ずっと腰痛を感じていたのだが、二日前にはその腰痛がいよいよ酷くなり、座っていることすらできずに仕事を早退した。
これらの症状は今朝になって緩和したが、寝起きのためか風邪がまだ残っているのか、東京駅を目指す電車の中では上気立つボウとした気分が収まらなかった。

家へと引き換えし、旅行はすべてキャンセルしてしまい、週末は家に引きこもると決めたのならば、どれほど開放感に溢れた爽快な気分になっただろう。

しかし、ここで今回の旅行を止めてしまうと、再度九州旅行を計画からやり直して実行するようには思えなかった。

のぞみ号の入口
今回は最後方の16号車に乗車した

足利直冬の歴史を追うのに、九州時代の直冬を無視するわけにはいかない。
九州旅行を止めてしまうのは、この「足利直冬紀行」を途中で放棄するのに等しいだろう。
誰に求められているわけでもないが、せっかく始めた「足利直冬紀行」をここでやめてしまうのは惜しい。
そのように思うと、気乗りはしないがキャンセルの決断もできず、東京駅へ向かう総武快速線の中でどうにかリカバリープランを思案し、のぞみ17号のチケットをスマホで購入して乗り込んだ。

直前に購入したチケットであるから、のぞみ号の席は3列側の通路側であった。
私は、電車から車窓を眺めていれば何時間でも時間を潰せる人間であるが、席が通路側にあってはどうしようもない。
隣の二席に座った男性二人は、横で話を聞いていると、どうやら広島まで行くらしい。
広島からのぞみ号の指定席で小倉や博多に行く人も珍しいだろうから、広島を過ぎれば窓側に移れるだろうが、それまでは我慢である。
本来はスカイマーク便の中で読むつもりで、スマホにダウンロードをしておいたマンガを読んで時間を潰す。

嫌々な旅行でも、新幹線に乗れば多少は気分が乗ってくるものだが、福山駅を過ぎたあたりで雨が降り始めたのを窓の水滴で確認し、広島駅を近くで雨は本降りになった。
丁度良く、スマホには「中国と北陸地方が梅雨入り」というニュース通知が表示されていた。
広島駅を過ぎて隣客も降り、窓際に移って高速で流れる景色を眺めるが、雨の降りが酷い。
これからこの雨の中を歩くのかと思うと、ますます気分は憂鬱になった。

のぞみ号は新下関駅を過ぎるとすぐに、関門トンネルに入った。
私にとって九州は、高校の修学旅行以来の30余年ぶりである。
その際も、新幹線で関門トンネルを通って九州に入った。今回も同じように九州に入る。
どうやら私は、新幹線で九州に入らないといけないのかもしれない。
九州に入ると、雨は止んだようだが、重そうな暗く分厚い雲が上空を覆っていた。

博多駅の九州新幹線の発車案内
撮影に失敗した

13時30分、博多駅に到着した。福山駅あたりでは4分ほど遅延していたようだが、どうやら回復したようである。
一度ホームを降りて、九州新幹線用のホームに移る。
九州新幹線用とわかったのは、東京側に車止めがあったからだ。

さくら405号
800系新幹線電車

13時36分、さくら405号鹿児島中央行も定刻通りに出発した。
私にとって九州新幹線は初乗車である。
私が乗ったさくら405号は、九州新幹線が全線開業する前から使われている800系という車両だった。
指定席は普通車ながら2+2列シートで、シートの背面や測壁には木目調のパネルが使われていて高級感がある。シートの座面のマットも心なしか深く柔らかいように感じる。

九州新幹線の車窓
雲が重苦しい

博多駅を過ぎるとまもなく博多南の巨大な新幹線車両基地を眺め、短い駅間をこまめに止まりながら南へと進んだ。
指定席の乗客は思いのほか多い。九州新幹線は乗車時間が短いから、若干安い自由席にばかり乗客が偏るのではと想像していたが、そうでもないらしい。

熊本駅の新幹線ホーム
降車客が多い

14時14分、熊本駅に到着。
博多駅では何も感じなかったが、熊本駅のホームに降りると、肌にまとわりつくような重苦しい湿気と暑さを感じる。ずっと冷房の効いた車内にいたから、今にも肌が結露しそうである。
熊本駅で降りる乗客は多い。
その乗客の流れに従って、私も改札口を出た。

熊本駅

熊本城

今回の旅は本来であれば、福岡空港に8時15分に到着したその足で九州内の直冬ゆかりの地を全て、といっても2件だけだが、その2件を訪問した後に、やはり14時過ぎに熊本駅に到着するつもりであった。

しかし、寝坊のせいで、本日訪れるつもりだった直冬ゆかりの地は全てすっ飛ばして、とりあえず熊本駅に到着した。
きょうはこのままホテルにチェックインをして、元々行くつもりであった熊本城の観光を済ませようと思う。

熊本市電

14時27分、熊本駅前から市電に乗った。
車内は立ち席客も多く混雑していた。私も席に座れず立ち席であった。
市電は、熊本市街の道路を右へ左へと何度も交差点を曲がりながら、熊本の中心街を目指す。
14時32分、市電は辛島町の停留所に着いた。辛島町で市電を降りた。
今回のホテルは、辛島町の停留所を降りてすぐの場所にあり、実際にホテルはすぐに見つかった。

熊本城ホール

ホテルのチェックインを済ませると、部屋に荷物を置いて早々に部屋を出た。
ホテルに入るまでに熊本市内の蒸し暑さでかなり汗をかいたので、シャワーだけでも浴びたかったが、どうせ熊本城に行けばまた汗をかくだろう。
それではキリがないので、そのまま熊本城へ行こうと思った。

熊本のアーケード

ホテルから熊本城までは、徒歩でもほどない距離であった。
熊本城までは、古めかしい市電の車両が走っているかと思えば、熊本城ホールのお洒落で近代的な建物があり、反対には華やかに賑わっているアーケード街があり、それらがごちゃ混ぜの風景になって、異国ではないけど普段とは違う世界にやってきたような気分になる。
日本を旅行していて、特に市街地でこのような感覚になるのは珍しい。

熊本城は、震災跡で修復されずにセメントで覆われた石垣が痛々しいように見えた。
人間の身体でいえば、傷跡がかさぶたのまま残されているようなものである。
天守閣こそ綺麗に修復されていたが、そのほかの建物は壁がはがれていたり石垣が崩れたままだ。
震災というのは、復興までには時間がかかるものなのだろう。

熊本城の入口
数寄屋丸二階御広間
震災跡がそのまま保存されている
空中回廊
観光客と修繕業者を分離するための施設なのだろう
熊本城天守閣

夜の熊本

熊本城を出てアーケード街に戻ると、時刻は16時になっていた。

夕飯には少し早いが昼食を食べていなかったので、腹は減っている。
熊本に来たのだから熊本ラーメンか馬肉でも食べるかと、アーケード街をぶらついていたら、ちょうど16時オープンの馬肉専門店を見つけたので、あまり考えずに入店した。

コース料理の前菜
馬刺しの盛り合わせ
馬肉のステーキ
馬刺しの寿司とみそ汁

店内は落ち着いた雰囲気で、窓からアーケードの様子が良く見える。
一人用のコース料金は8,000円と高額であったが、これを注文した。

一人でコース料理を食べていると、突然強い雨が降り始めたのが、アーケードの脇道の様子からわかった。
この店からホテルまでは、ずっと屋根のあるアーケードが続いているので何の心配も無いが、それでも雨は嫌なものである。
しかし、その強い雨も間も無く止んだ。
一時間ほどその店に滞在をして、会計を済ませて店を出た。
飲み物代も含めると、料金は1万円札を出しても小銭だけが返ってくる値段だった。

熊本ソープ街

店を出ると、すぐ裏手にあるソープ街を歩いて見ることにした。
熊本の風俗は有名で、今でも活況を呈しているらしい。

その風評にたがわず、ソープ街は古めかしい建物は派手な看板に覆われていてにぎやかで、昼でも風俗街特有の淫靡な雰囲気がある。
辛島町の停留所を降り立った際にも、何か異国のようなものを感じたが、ソープ街はまさに非日常を具現化したような風景であった。
未成年の児童や学生だって行き交うアーケードのすぐ横に、このような艶めかしいソープ街があるのは、どうにもけしからんようにも思えるが、日本でこの手の街が生活圏と完全に隔絶されているのは吉原と雄琴温泉くらいなものだろうか。
日常的な生活圏のすぐ横に、このような非日常の世界が広がっているのは、案外普通のことなのかもしれない。ここで働いている人や足しげく通う人にとっては非日常でもないのだろうけど。

ソープ街を歩いていると呼び込みに声を掛けられるが、軽い会釈だけしてかわす。
強引ではないので冷やかしで歩いていても嫌な気分にはならない。
熊本のソープは過激サービスは売りらしい。要はコンドームを使わないのだ。
衛生器具を使わない店での行為にどれだけの価値があるのか、私にはむしろ性病のリスクが高くなるだけサービスを受けるのは遠慮願いたいのだが、世間一般はそうでもないらしい。
冷やかしでソープ街を歩くが、そういう情報を事前に仕入れていたし、そもそも旅先でこの手の風俗店に入るつもりはないので、店に入ろうという気は起きない。

それでも、昨今の日本の風俗街はどこも右肩下がりであるようなのに、この熊本の風俗街の賑わいは妙に勇気づけられる。
こういう言い方は熊本の方に失礼なのかもしれないが、この熊本風俗の「過激サービス」による風俗街の賑わいが、熊本の街全体の活況の要因にもなっているように思える。

アーケードに展示されていてJRAの馬ロボット

ソープ街を一巡回って、もういいだろうと思い、ソープ街からアーケードを挟んだ反対側にあるクラブ街を見て回った。
これまで、風俗街の跡形もなくなっていた足利、踏ん張って営業している和歌山、滅びつつある尾道と、三様の風俗街を見て回ったが、熊本においては往時の活況が今も続いているようであった。
まだ、クラブやスナックが営業する時刻には早いのだが、看板の派手さや無料案内所の多さが、この街が生きていることを物語っている。

実際に夜の街が賑わうには少し時間が早い。
一度ホテルに戻って、大浴場で汗を流し、部屋で仮眠を取ることにした。

20時、そろそろ夜の街も動き出したころだろうと思い、ホテルを出てクラブ街を再度訪れることにした。
クラブ街へ行く前に通ったアーケード街は夜にもかかわらず人通りが多い。
思えば、今日は6月の下旬であるからボーナスが出た時期である。
週末の繁華街が賑わうのも当然だろう。

夜の熊本

前回の尾道でスナックに入った際は楽しい思いをしたので、今回もクラブかスナックに入ってみようかと思ったが、あまりにクラブ街が活況を呈していたので、私は気後れをしてしまい、店に入ることはできなかった。
路上で客引きをしているホステス嬢も多数いたが、どうにも声を掛けずらい。もちろん、向こうからは声を掛けられなかった。
そもそも、これだけ人でにぎわっていたら、私のようなリピートも望めない一人の旅行客などお呼びではないかもしれない。
おまけに、夜になっても相変わらずの湿気に参ってしまい、夜の街で遊ぶのはあきらめて、熊本ラーメンだけ食べてホテルに戻ることにした。

熊本ラーメン

何となく入店したラーメン店は、表の派手な看板に比して店内が薄暗く粗末であったため失敗したかと思ったが、出てきたラーメンはスープが濃厚で甘く、素直に旨いと思えた。
ラーメンが旨かったのだから、熊本はこれで十分だと思えた。

川尻城跡

2024年6月23日の日曜日、泊まったホテルは朝食バイキングと大浴場がいずれも朝の6時から営業しているので、6時前に起きて6時に朝食、その後すぐに朝風呂を済ませ、7時過ぎにホテルをチェックアウトした。

ホテルを出るとすぐ目の前にある辛島町の市電停留所で市電を待ち、熊本駅へ向かった。
相変わらず、市電は市街地を右へ左へと曲がりながら進む。
市電は前日ほどの混雑ではないが席がすべて埋まるくらいには乗客がいて、途中から乗ってきた客は立ち席となった。

7時30分過ぎに熊本駅前に着いた。
時刻表を見ると7時42分発の八代行に乗れば、最初の目的地である川尻城跡の最寄り駅である川尻駅へいけるようだ。

手持ちのPASMOで改札を通り、八代行の列車があるホームに登った。

八代行普通列車
JR九州821系電車の通称は「イカ釣り漁船」

7時42分、八代行の普通列車は熊本駅を定刻通りに出発した。車内には座席が7割ほど埋まるくらいに乗客がいる。日曜のこんな朝早くから、みんなどこへ行くのかと思うが、自分だって同じなのだから人のことは言えない。

川尻駅

7時49分、川尻駅着。
川尻駅は典型的な田舎の無人駅で、かつては駅員も常駐していたのかもしれないが、今は駅員が滞在している様子はない。
数人の乗客が川尻駅で降りた。
私は乗ってきた車両やホームや駅舎内の写真を撮ってから、他の乗客に遅れて駅を出た。

駅を出ると、駅前には2台のタクシーが客を待って控えていた。
いまどき、このような無人駅にタクシーが待機しているのも珍しいが、川尻駅の西側には巨大な工場が見えたから、その工場を訪問する客を目当てにしているのだろうか。
とりあえず、私が乗ってきた列車でタクシーに乗ろうという客はいなかった。
ところで、今日も朝から雲行きは怪しい。今のところ雨は降っていないが、西には真っ黒の分厚い雲が控えていて、風は西から東へと吹いている。
タクシーがあるのだから、このタクシーを使って観光を使用かとも思ったが、川尻駅から川尻城跡までは徒歩でも10分程度の距離である。
わざわざタクシーを使うほどではないし、川尻城跡とはいってもただの小さな児童公園であるから、そのような場所を訪問する得体の知れない中年男性客を乗せるタクシーの運転手だって、何か気味が悪いと感じるだろう。

ここは素直にあるいて川尻城跡を目指した。

替わり時の用水路は水面が高く地面ギリギリである

JR鹿児島本線沿いにしばらく歩くと、石垣で囲われた用水路にぶつかる。用水路沿いにJR鹿児島本線と九州新幹線の高架下をくぐる。すると、まっ平な田園風景が広がっていた。
おそらく、この辺りは元々は遠浅の海で、干拓と埋め立てで水田にしたのであろう。足元を流れる用水路の水面は高く、もう一度でも雨が降ればあふれ出そうである。

熊本藩川尻米蔵

川尻城跡の前に、熊本藩川尻米蔵を訪ねた。
熊本藩川尻米蔵は、川尻の史跡としてもっとも有名な史跡であると思われるが、訪れてみると開場は9時30分からとなっていた。今の時刻はちょうど8時。
ここで1時間30分もまっていられないので、熊本藩川尻米蔵は諦めて川尻城跡を目指す。

川尻城跡公園
川尻城跡の説明

川尻城跡は、事前に調べた通りただの児童公園であった。ただし、隣には熊本城の櫓を思わせる古いつくりの公会堂があって、この建物が歴史を偲ばせた。

1349年、鞆の浦を追われた直冬は瀬戸内海から下関を通ってこの川尻の地に上陸した。
九州への逃亡に際しては磯部左近将監や河尻幸俊らの助けがあったとされているが、彼らがどのような経緯で直冬を助けたのかは、調べてみてもわからなかった。
直冬が実際に川尻城跡に滞在したという記録は無いが、川尻に上陸したというのであれば、普通に考えれば当時もっとも立派な建物であったであろう川尻城を当面の根城にしたとするのが自然であろう。

川尻城跡を川を挟んで眺める

川尻に上陸した直冬は、南朝側に付いてしばらくは九州の北朝側である一色範氏や少弐頼尚と争った。
当時の直冬は北朝の有力者である足利尊氏や高師直からは命を狙われている身であるし、唯一の味方であり義父である直義は失脚していて北朝内での権力はない。
逃れてきた川尻という土地は南朝勢力下にあったから、当時の直冬は南朝側に下るしかなかったのだろう。
このように直冬は北朝側と争ってはいたが、1349年の12月には足利尊氏の出家命令に逆らった直冬の討伐命令が出ても、一色範氏や少弐頼尚はそれに従わなかった。
彼らは本気で父親が実子を殺そうとするわけが無いと考えたとされる。
しかし、かの時代より遡ること160年、頼朝の命令に従って匿っていた義経を討ったのに、結局頼朝に殺害されてしまった藤原泰衡を、彼らは自分にダブらせて連想したのかもしれない。

古城神社
古城神社の説明

現代の川尻城跡には児童公園しかないが、横には古城神社という小さな神社が建てられていた。
西日本の小さな神社の例にもれず、この神社も正面の拝殿は神社とは思えない現代的で簡素な造りであったが、裏にはしっかりと本殿があった。

公園沿いにある用水路の橋を渡って駅に戻ることにする。
この用水路は両岸を石垣で護られている。
おそらく、昔は海に出るための運河であったのだろう。
しかし、今はこの場所から海までの距離は遠く、運河としては機能していない。

浦ノ城跡と太宰府天満宮

8時20分、川尻駅に戻ったがどうにも朝から腹の具合が悪く、8時22分の列車はやり過ごすことにした。
昨日のラーメンが良くなかったのだろうか。
私は脂っこいラーメンを食べると、腹を壊すことが多い。

鳥栖行区間快速
JR815系電車はロングシートであるため、そちら界隈の人たちからは嫌われているらしい

8時35分、区間快速鳥栖行の列車に乗る。
これで熊本を越えて大牟田まで向かう。
次の目的地は太宰府であるが、太宰府天満宮は目的地ではない。
区間快速は熊本駅で半分以上の客を降ろし、熊本駅を出ると山間ののどかな風景の中を進んだ。
天気はどうにか持ちそうである。
近くには新幹線駅もある玉名駅を過ぎると、景色は平野部に変わった。
この辺りは海沿いを走るはずであるが、車窓から海は見えなかった。

JR大牟田駅の線路

9時35分、大牟田駅に到着。
JRの大牟田駅は、今は使われていないであろう多数の貨物用線路が今も残されていた。
その線路の向こう側には西鉄のホームが申し訳なさそうに並んでいる。
JRと併設している私鉄の終着駅というのは、大抵がこのようにJRに対して遠慮がちにホームを並べているが、九州の西鉄においても例外ではないようであった。

西鉄大牟田駅

JRの跨線橋を渡り、西鉄の改札に入る。
私にとって西鉄の乗車は初体験である。
西鉄大牟田駅のホームに待機をしていたのは、5000形という古いロングシートの車両であった。運が良ければセミクロスシートの車両が特急に使われるようだが、今回は引きが悪かったのだろう。
むしろ、この5000形という車両は廃車が進んでいるようであるから、むしろ運が良かったのかもしれないが。

特急福岡天神行
西鉄5000形電車

9時53分、福岡天神行の西鉄特急は大牟田駅を出発した。
大牟田駅の新栄町を出ると、この5000形の特急は抵抗制御のモーターを唸らせて特急らしい走りをした。
西鉄の最高速度が110キロであるらしいが、果たしてこの古い5000形も110キロまで出しているのかはわからないが、中々に迫力のある走りではある。

久留米駅で車内も大分混み合い、立ち席客も多数でるようになった。
かつての西鉄は、特急に専用の2ドア車をつかっていたようだが、日曜日の昼でもこれだけ混んでいると、2ドア車ではとても客をさばききれなかっただろう。実際、西鉄の2ドア車は廃車になってしまった。

二日市駅の発車案内板
41分発の電車があったが41分より前に出発してしまった

10時39分、二日市駅着。
2分後の41分に太宰府行きの列車があったが、太宰府行きのホームのかけ降りると41分より前であるのに、太宰府行きの列車は出発してしまった。
どうやら39分着の特急の乗り換え客は乗せないというルールがあるのだろう。
二日市駅で次の電車を待っていると、雨が少しずつ降り始めた。
まだ大した雨ではないが、太宰府駅を降りたら少しは歩き回るので、その間だけでも天気が持ってくれと思ってしまう。

太宰府までの電車も5000形

10時53分、あらためて二日市駅で太宰府行きの普通列車に乗った。
普通列車の座席に座ると、正面の高校生のカップルが仲良さそうにしていた。女性の方は手足がすらり長く、頭を男性の肩にもたれかかってじゃれついている。男性はそのように女性に寄り添われてもデレつくわけでもなく、あまり我関せずという感じであった。
しかし、このカップル、どうみても女性の方が男性よりも外見だけ見れば数段優れている。正直、あまり釣り合っているようには見えない。
このカップルが、将来も幸せであることを願うばかりだ。

太宰府駅

11時0分。太宰府駅に到着した。
ここから、まずは目的地である浦ノ城跡を目指す。

浦ノ城跡は少弐頼尚が拠点とした城である。
川尻城の際は、直冬は少弐頼尚と争ったと書いたが、その後の1350年の9月ごろ、少弐頼尚は一色範氏を裏切って直冬と手を組んだ。

そもそも、少弐頼尚の少弐家は鎌倉幕府時代から九州の太宰府を拠点に鎮西奉行となった九州武家のトップである。元寇の際には日本軍の先頭に立って戦った。
一方の一色範氏は足利家の血縁であり、足利尊氏が多々良浜の戦いで勝利した後に、足利方の九州の守りとして残される形で九州支配を進めるようになり、九州探題として少弐頼尚に代わって北朝側の九州のトップになった。

彼ら双方の言い分は、どちらも良くわかる。
少弐頼尚の方は、長年九州を統治し多々良浜の戦いでは劣勢だった足利尊氏側について後の北朝側が勝利へと導いたのだから、当然、鎌倉幕府時代と同じか、むしろそれ以上の地位が与えられて当然だと思っただろう。
しかし、一方の足利側から見れば、少弐頼尚というのは足利と同じように鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇の建武政権も裏切った武将である。今は足利側についていても、旗色が悪くなればすぐにでも裏切る可能性のある人間といえる。絶対に裏切らない親族を上につけておかないと危なっかしくてしょうがない。
そのように考えると、この二人が反目をしたのは当然の成り行きだったのかもしれないが、その争いに火をつけたのは直冬であった。

浦ノ城跡を示す案内板

太宰府駅を降りると、太宰府天満宮方面には向かわず、北に向かう。
御笠川の橋を渡ると、その先は住宅街であるが丘のようになっており、坂道を登る。
途中に巨大な岩を積み重ねた石垣の上に立つ住宅が見えた。おそらく、ここが本来の浦ノ城だったのではないかと思われるが、浦ノ城跡とされる公園はその50mほど先にあった。

途中の民家にあった巨大な石垣
こちらが本来の城跡では?

少弐頼尚と組んだ直冬は、以後、一色範氏に追われて九州から逃れるまでの間、この浦ノ城を拠点としたとされる。
ここで、直冬は少弐頼尚の娘と結ばれたらしい。
東勝寺の喝食であった直冬であるから、女性と結ばれて結婚できただけでも奇跡であったかもしれない。
喝食とは本来は禅寺で食事の際に声を上げて号令をする係を指すが、これはほぼ隠語で、実際は平安時代の稚児と同じような立場であったようである。

稚児と同じということは、仏教を学びながら寺の雑用を担う係であるが、それだけではなく僧侶たちの慰みものになる役割もあった。特に直冬が居た東勝寺というのは、凄惨な鎌倉幕府の大量自害の場に立ち会った僧侶たちであるから、精神的に不安定な僧侶も多かったであろう。
これ以上は想像で色々書いてもしかたないので止めておくが、とにかく、直冬にとって浦ノ城は、彼の生涯で初めての安住の地だっただろうと思われる。

浦ノ城跡の公園

しかし、直冬の浦ノ城滞在は長く続かない。

足利尊氏は直冬と組んで裏切った少弐頼尚の双方を討つために、九州への挙兵を企てるが、その背後を失脚していた足利直義が戦を仕掛ける。

観応の擾乱である。

この観応の擾乱は、その推移がとにかくややこしい。日本史を勉強していると、最大の障害になる時代でもある。
ややこしくしている一因に直冬がいるのだが、それにしても、直義が南朝に寝返ったと思えば、敗れた尊氏の主導で戦後の恩賞が与えられたり、直義を討つために佐々木道誉と赤松則祐が裏切ったというブラフを建てたり、今度は尊氏が南朝に寝返ったりと、筋が通らず無茶苦茶なのだ。

浦ノ城跡の案内板

そのような観応の擾乱であるが、直冬に関してだけ取り上げれば、観応の擾乱に勝利した直義によって直冬は正式に九州のトップである九州探題に命じられる。1351年の3月頃である。
おそらく、この辺りが直冬の人生においてもピークであっただろう。
しかし、その直後の直義の失脚と暗殺によって、直冬と少弐頼尚の立場も一気に悪くなり、直冬は九州から中国地方へ逃れることになる。

浦ノ城跡から太宰府市街を眺めた景色

そのような浦ノ城跡であるが、現代では凡庸な児童公園になっている。
しかし、城跡だけあって高台にあり、公園の周りに生えている木々を取り除けば、きっと周囲が良く見渡せたのだろうと思われた。

浦ノ城跡の写真を一通り撮ったら、やることが無くなってしまった。
これで、今回の九州訪問の目的地を全て訪れたことになるが、実際に訪れてみても大した発見もなければ、格別の感動も無かった。
かつては太宰府が大陸からの防衛の要となる重要な軍事拠点であったのは知識として知っているが、現代の太宰府を訪れても、そうなのかーという感想だけであるし、直冬がかつてここに住んでいたと言われても、やはりそうなのかーだけであった。

少しずつだが雨粒が大きくなってきたように思える。
折り畳みの傘をさしているが、小さい折り畳みの傘でいつまで雨を防げるかも不安になってきた。
太宰府天満宮を目指すことにする。

太宰府天満宮の西門

太宰府天満宮をついでの訪問と言ってしまうと、日本三大怨霊でもある菅原道真に祟られそうなので、ここは素直に学業成就を願うために訪れたことにする。

太宰府天満宮

拝殿の前で参拝を済ませ、お土産のお守りを購入すると、これまで小雨だった雨が突然嵐のような激しい雨になった。
まるで、今回の旅の目的を全て達したから、カーテンが降ろされたようでもある。
小さい折り畳みの傘をさしても全くの無駄のように思えるが、それでも少し雨足が弱くなるタイミングを見計らっては、傘で頭を隠して少しずつ駅の方に向かい、何度か雨宿りで立ち往生をしながら、11時35分頃に太宰府駅に戻ってきた。

これから博多駅に向かうのだが、駅前には丁度、福岡空港を経由して博多駅行きのバスが出発しようとしていたので、そのバスに飛び乗った。

豊田氏館跡

今回の旅の訪問は、これで終わりのつもりであった。

しかし、寝坊をせずに今回の旅をしていたのであれば、山口県にある豊田氏館跡も訪れる予定であった。九州を逃れた直冬が、実父の尊氏と雌雄を決するために上洛するまで拠点としていた場所である。
本日の朝、熊本を発った際には、太宰府を発つのを12時過ぎと見込んでおり、この時間では豊田氏館跡の訪問はかなわないだろうと諦めていた。
豊田氏館跡は次の旅行に回して、太宰府を出たら博多近辺をブラついて帰るつもりでいた。
ところが、今乗っている博多駅行きのバスは、博多駅を12時15分、渋滞を勘案しても12時20分頃には博多駅に着くようである。

乗換案内を調べると12時36分に博多駅を出発するのぞみ30号に乗れば、13時10分に新山口駅に到着する。
元々予約していた帰りの新幹線は、16時11分に新山口駅を出発するのぞみ44号で、これはかなり事前に購入したために割安になっていたグリーン車である。
帰りの乗車時間が長いからと、通常の普通車料金とほぼ同じ値段であったグリーン車を取っておいたのだが、今となってはこのグリーン車にどうしても乗りたい。
しかし、この手の割安チケットは時刻の変更が効かないから、どうしてもこの時間にこの区間で乗るしかない。

これから博多近辺をブラつくのであれば、のぞみ44号で新山口まで普通車に乗って、新山口駅で同じ列車のグリーン車に移動することになるが、どうにもそれはスマートではないように思える。

一方で、13時10分に新山口駅に到着すれば、16時11分までの3時間の間にレンタカーを借りて、豊田氏館跡を訪問できるではないか。
そう思いついくと、スマホで新山口駅周辺のレンタカーを予約し、さらに博多駅から新山口駅までの自由席もスマホで購入した。

博多駅
時間が無かったので碌な写真も撮れず

果たして、バスは博多駅周辺の渋滞に往生しながらも、12時20分に博多駅バスターミナルに到着した。
あとは、博多駅でのぞみ30号に乗るだけである。

博多駅の発車案内板

12時30分に新幹線ホームに到着したが、のぞみ30号はいまだに車内整備中でホームには乗車待ちの乗客が多数並んでいる。
自由席があるホームの後方に行くと、のぞみ号の自由席ってこんなに混んでるの?と疑いたくなるほど多数の乗客が並んでいた。

12時34分、発車の2分前にようやくドアが開く。
どうにか窓際の席に着席すると、まもなくのぞみ30号は博多駅を出発した。
のぞみ30号は博多駅を定刻通りに出発したが、小倉駅で停止位置修正のために4分遅延した。駅に着いているのにドアが開かず、車内でも車外でもドアが開くのを黙って並んで待っている乗客が、なぜかシュールでユーモラスに見えた。

のぞみ30号からの車窓

13時14分、4分遅れで新山口駅に到着した。
新山口駅は昨年の11月以来、二回目である。何も変わってはいないようだが、蒸し暑さだけが前回とは異なっていた。
駅前のレンタカーで軽自動車を借り、中国道を通ってまっすぐ豊田氏館跡へ向かった。
本来であれば、秋吉台や前回の訪問で写真を取り損ねた桜山南原寺も訪れたるつもりであったが、これらは全てお預けである。

新山口駅

カーナビがあるにもかかわらず何度か道に迷い、15時20分、豊田氏館跡に到着した。
豊田氏館跡は写真で見るより山の中にあって、隣には黒毛の牛を飼育している小さな牧場があった。
山の中に身を隠すような場所であるのは、当時の直冬の状況を察すれば的確な場所であるように思えるが、豊田氏館が直冬の状況に合わせて建てられたわけではないはずだ。

豊田氏館跡

ひとつ山を挟んだ一ノ瀬城跡の向こう側には、広い平野のある豊田町があるのに、わざわざこの地に屋敷を建てたのには何か理由があるのだろう。
ただし、その理由は、この地を訪れただけではわかるはずもなかった。

もちろん、隣にいた牛さんに聞いても何もわからない


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