見出し画像

【短編小説】肩書きBOX

「いえいえ、あなたはただ働いているフリをすれば良いんです」
 そう説明する女は実に愛想が良い。小さなカウンターを挟んだ向かいには、一人の男がそれを熱心に聞いている。どうやら男はあまり話が掴めないらしい。さっきから何度も同じような質問を繰り返し、女は冒頭のようなことを何度も繰り返し説明している。女はそれでも表情ひとつ崩さない。テキパキと、正確な動作で書類を扱い、話をする時には男の目をきちんと見て話す。お手本のような受け答えである。
「ええ、ですから、あなたは毎朝9時にこちらに出社し」
 女は書類に書かれた会社の名前を指す。
「席に座って、相談にいらしたお客様の対応をしていただければ大丈夫です。窓口は15時までですので、その後はその日の集計や書類の整理などをして、17時には終業となります」
 男は口をすぼめて、背中を丸めながら、女の言うことを一言ももらさず聞こうと、やはり熱心に聞いていた。女の話を頭の中で復唱する。だが男は、やはり疑問が沸くのか、質問を繰り返した。
「あの、とてもよくわかったのですが、やはり気になるのは、その、わたしの能力の問題でして」
 男は、女の顔を伺いながら続ける。
「3級までの資格はあるので、全体の、その、業務内容はもちろんわかると思うのですが」
 女はにっこりしている。
「なんと言いますか、端的に言うと、私でも務まる仕事なのでしょうか。その、つまり、難しい相談もあると思いますし」
 男の話がそれで終わったとわかると、女はまず、例の愛想の良い感じで「はい」と言い、「大丈夫ですよ、わからないことはマニュアルに書いてありますので、あなたは働いているフリをすれば良いのです」とまた同じことを言った。
 そんなやりとりが3度4度続いたが、話が進むことはなく、その日は受付終了時間を迎えてしまった。すみません、と男は、女に詫びのような礼のようなことを言いそこを後にした。

 数ヶ月後。男はある会社の窓口に座っていた。いつかのあの女が紹介した会社である。男は清潔感のある短い髪形で、表情はやわらかく微笑んでいる。
 外から一人の客が扉を開けて入ってきた。男はすぐさま立ち上がって、「ようこそ、○○会社へ。さあ、こちらへどうぞ」と席を勧めながら挨拶をした。客は背中を丸めながら、少し不安そうに席に座った。
 それから、男と客は話をしたが、中身のあるようなないような話だった。男には内容のわからないこともあったが、客はそれを怒ることもなく、男の説明をただ聞いていた。たまに不安になることはあっても、男が愛想の良い対応をしてくれるので、話を続けることができた。そして何より、男の左胸には「相談係」という名札がついていた。その肩書を見た客は、信じる他なかった。

 男と客の話は終わった。相談の内容はうまく進まなかったが、客は「すみません、ありがとうございました」と言って、席から立ち上がった。男も見送りのため合わせて立ち上がった。カウンターを挟んで二人は立ち合う形になった。お互いを見合う、妙な間があって、客は思い出したようにジャケットの内ポケットから財布を出した。お金を数えながら相談料を取り出し、カウンターの上に置かれた抽選箱のような大きな箱にそのお金を入れた。その箱の右隅には小さな文字で「肩書きBOX」と印刷されてある。そして真ん中には、大きく「相談係」と手書きの文字がある。
 男はニコニコしながら客にお礼の言葉を言って頭を下げた。

 そうして、客は扉から出て行った。男は、しばらく微笑みを崩さず、立ったままそれを見送っていた。扉が完全に閉まると、あたりが急に静かになった。小さなため息が漏れる音がした。男の口から出たものだった。男の顔はいつの間にか無表情になっている。視線の先には肩書きBOXがある。ほんの一瞬何かを考え、そしてそれを打ち消した。表情はもうない。男は肩書きBOXに手を伸ばし、箱の中からお金を取り出すと、自分の財布にそれをしまった。
 男の仕事は、相談係のフリをすることだった。

気に入ってくださいましたら、ぜひお気持ちを!