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蓮見圭一・水曜の朝、午前三時

2025年に大阪で万博が開かれるらしい。建設費とか、他国の参加状況とかを見ているとなんだかあんまり良い万博になる気はしないのだけれども、今から約50年前の1970年の大阪万博は盛況だったらしい。私も、私の両親も生まれてないからわからないけれども。

文中にも出てくるように、1970年の大阪万博は戦後という時代に終止符を打ったものであったのだろう。第二次世界大戦において、日本は敗戦国であるという歴史的事実は何億年経っても変わることのない不変の事実である。だけれども、大阪万博の開催と成功は、日本は敗戦国というネガティブな印象を、経済成長を遂げている未来ある国というある程度はポジティブな印象に変えたものであったのだろう。そしてまた、敗戦国である日本で西洋由来の万博が開かれるという事実は、1964年の東京オリンピックの開催と併せて日本が国際社会に文化的に復帰したことの表れであったのだと思う。

産業や政治が時代の流れとともにポンポンと変わっていくのに対して、人間の倫理観というものは些かゆっくりと変化していくものらしい。1970年の万博の開催がスピード感あふれる日本の産業の発展と戦後という時代の終わりを強調し、日本の国際社会への再加入を象徴するのに対して、直美の人生と彼女の家のしがらみ、そして倫理観の不変具合はスピード感のないものとして万博とは対照的に語られる。女性の幸福とは結婚し、家庭に入ることであるという考えが当たり前であった時代である。その価値観が良いか悪いかは時代背景によって変わるものであり一概に決めつけることはできないけれども、女性の人生が家に縛られていたことは事実であろう。そしてまた、朝鮮人に対する差別が根強く残っていたことも事実である。

人類みな同胞といわれるが、それは理想郷のお花畑に住んでいる人の考えでしかなく、現実の世界では人種、生まれ、宗教による差別が当たり前のものとして、平然と、素知らぬ顔をして世間を闊歩してる。それは1970年でも2024年でも同じである。人種や宗教、国籍。そういった理由で結婚を止められることは21世紀になった2024年でもよく聞く話である。

許嫁との婚約を解消し、親の決めた就職先の出版社を退職して、家出までして大阪万博のホステスとなった直美でも、朝鮮人の臼井礼とは結婚しなかった。許嫁との婚約解消、大阪万博でホステスとして働くことを実現させるために直美は彼女の両親と何度も言い争いをし、冷戦のような関係に幾度となく陥るが、臼井礼との結婚を取りやめるとなった際に、彼女は何も言わなかった。それ以上に彼女自身が自ら結婚を諦めた。あれだけ自我を通した直美ですら朝鮮人との結婚というものはありえないものであったのだろう。

あのとき、朝鮮人の臼井礼と結婚していたら、直美の人生は違ったものだっただろう。臼井礼にこれ以上交際はできないという手紙を送ったのち、彼女は結局日本人の新聞記者と結婚して、娘を授かり、死ぬまで離婚せずにいた。臼井礼と結婚した場合、彼女は精神的には幸福であっただろう。しかし、夫は朝鮮人である。差別、就職、子供の名前、学校、等々で日本人と結婚していたら遭遇することのない問題にも遭遇しただろうし、逆に臼井礼と結婚したからこそ得ることができた幸福というものもあっただろう。新聞記者と結婚してからも直美は臼井礼と関わり続けたし、彼のことを考え続けた。死ぬまで。でもそれは、彼女が万博後に取った日本人の新聞記者との結婚が間違いであったという証拠にはならないし、逆に臼井礼との結婚が最適解であったという結論にも至らないのである。「あのときああすれば」の「あのとき」は一生戻ってこないものであり、「あのときああすれば」は自己の心の中で永遠として残り続けるものでしかないのである。

自分が選ばなかった選択肢を選んだ時に考えられる未来は無限大に広がっていて、それは青く見えるかもしれない。でも、自分がそのとき取った選択肢が間違っていたということはないし、どの選択肢が正しかったのかは一生考えるのだと思う。言わば、自分がとった選択肢を正しかったものとして生きるのが最も精神的に幸福な人生なのではないかと考えた。

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