人前でひとりになれるのか ~ひとり好きの戦略 分析編~

私は一人で居ることが好きだ。人前では言えないようなことを考えたり、喋ったり、叫んだりできるからだ。

人前に立つと、人が居ることを意識して自分の言動を制限してしまう。これが僕は苦痛だ。人に認識されることが嫌すぎて、話せば良いようなどうでもいいことまで話さずに黙って突っ立っている。

さて、今日からしばらく、人前に立っても一人でいるような気持ちを保つための方法について考えてみよう。

他人を意識することで僕の言動は大いに制限されると書いた。人前に立つと、まるで透明人間になったように私の思考が隠れて見えなくなることがある。一体何を恐れているのだろう?

他人を不快にさせること、不安にさせること、迷惑をかけること、私の間違いを他人が正しいと思ってしまうこと・・・・・・、そんなことを恐れているような気がする。

私には「自分の表現に責任を持つべきだ」という価値観がある。

「リンゴが好きだ」と言ったら、明日もリンゴが好きでなければいけない気がするし、「朝食はご飯よりパンだ」と言ったら毎日パンを食べなければいけない気がしてくる。

放った言葉は回収することができないから、表現することに慎重になる。

だが、私の心や習慣や言動はきちんと規定された物ではなく、曖昧なことの方が多い。曖昧なことを言語化して相手に伝えれば間違いが生まれる。

人は間違える生き物だが、積極的に間違えるべきではない。

「自分の表現に責任を持つべきだ」という価値観と、「私は間違える」という経験から判断して、自分の価値観に反しないよう私は口をつぐむことを肯定している。

会話をしない理由について書いたが、それに対して私が会話から得る物は何だろうか。

間違った。という反省。
間違った?という不安。
間違った!という後悔。

叫んで逃げ出したくなることもしばしばある。逃げ出せないから足をばたばたさせながら、恥のエネルギーを発散するべく打ち合わせの議事録をガタガタ打ち込んで気を紛らわせるのが日常だ。

感情は激しく動いているから、私としては成長をしているのかもしれない。人は痛みで学習し、成長する。他人との会話は私が本気で悩む戦いの一つだから、私の今後の変革の課題が転がっていそうではある。

今日はここまで。次回は「間違えた時の対処方法」について考えよう。

では。

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