夢に朽ちて逝くか、妥当な現実に甘んじるのか
運命とか奇跡とか、そういうのを信じていると夢見がちだと言われてしまう。
特に私なんかのようにもう30代となればなおのこと。
しかも子どももいるのに、もっと現実を見なさいよと、こうくる。
現実なら見てる。
嫌というほど、現実と向き合ってる。
でも、恋愛や結婚については、また話が別だ。
夢がなかったら、愛がなかったら、乗り越えられない現実もある。
結婚は生活だ。
夢だの愛だのとは無縁に思う人もいるかもしれない。
そんなものは甘いと言う人もたくさんいるだろう。
でも、考えてみてほしい。
パートナーがある日突然、事故や病気で働けなくなり、日々の生活でサポートが必要になったら。
愛もない、条件で選んだ相手に尽くせるのか?
下の世話をして、思い通りにいかず苛立つ相手をなだめ、今まで以上に相手の分まで稼がなくてはならなくて…それでも側に居ようと思う理由は何だろうか?
私なら、愛もない、二人で描いた夢もない、宝物みたいな思い出もない相手に、尽くすのは無理だ。
と思う。
なんなら、どれだけ楽しかった思い出があろうとも、相手が豹変したら見捨てるかもしれないと思う程度に、私は薄情だ。
でも、苦痛と天秤にかけて、それでも何を比べても、その人の側に居られなくなることが何より辛く悲しいと思ってしまうくらいの愛情があったら、別れないと思う。
だから、私は、運命を感じるほどに、出逢いを、愛し合えることを奇跡と呼びたくなるほどに、心から愛せる人と、人生を共にしたい。
そういう人とじゃなきゃ、共に歩むことはできない。
だって、都合良く並べた条件に合ってる人なら誰でもいいのなら、私は離婚なんてする必要がなかったはずなんだから。
誰でもいい、なんてそんな条件満たせば他は目を瞑って何でも我慢できるのなら離婚なんてしてない。
誰でもなんて、いいわけないんだ。
だからね、私は、このまま夢見がちなまま年老いて朽ち果てて逝くとしても、そのまま生きるよ。
妥協した現実に未来はないから。
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