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歩みのノロい亀

僕は人と話すことが苦手であった。
何を話せばいいのか分からず、自分から話しだすことはもちろん、話しかけられても会話のラリーを続けることができない。
例えば、
「今日、いい天気ですね」と相手が話しかけてくれる。
「そうですね」と僕は答える。
…以上である。
相手は相当困る。なんなんだこいつは、と思われても仕方がない。せっかく話しかけたのに…と相手を傷つけているかもしれない。
言い訳をするわけではないが、突然話しかけられたことで頭の中は「話しかけられた!」とそれだけでいっぱいになってパニック状態になり、会話を続けようとする余裕が全くなくなるのだ。
家にいるときはまるで機関銃のように言葉がバンバン出てくる。家族によく言われる。「あんた、外でもそれくらい話しなさいよ」。
他人と話せないのは本当に申し訳ないなと思いつつ、どうしたものだろうと思っていた。

僕の今の仕事は、人と話してナンボの仕事である。
毎日、20人くらいの初めましての人と言葉を交わしている。半年前の自分からは考えられない。
会社説明会では、これほど人と話す業務内容があることは伝えられていなかったように思う。むしろこんなに他人と話す機会があると前々から知っていたら、入社していない。
友人とくだらない話をして笑い合う、そんな楽しい会話とはワケが違う。相手はお客さんである。社会人として失礼のない言葉遣い、丁寧な対応、分かりやすい説明など、気にしなければならない点はもちろん多く、不安だらけであった。

現在は先輩と同行させてもらっているが、いずれは一人で様々な人と、様々な場面を対応していかなければいけない。
先輩が背後で見守る中、僕はお客さんに説明をする。
天気の話や世の中で起きている出来事など、気軽に世間話をするわけではない。お客さんに分かりやすくきちんと説明することが求められる。
言葉にしてしまえば当たり前なことだが、最初は難しかった。
お客さんを目の前にすると声は震え、焦れば焦るほど早口になる。早口になっている自分を感じてさらに焦り、頭が真っ白になった。汗は文字通り体中から噴き出し、しまいには手が震えて説明冊子のページがなかなかめくることができなくなったときもあった。
この調子で大丈夫なのだろうか。数カ月後には焦らず説明できるようになっているのだろうか。
先輩に不安を口に出してみた。「みんな最初はいさをみたいに緊張しまくってたから。大丈夫、慣れよ、慣れ」僕は先輩の言葉を正直、信じることはできなかった。

同行させてもらってもうすぐ一ヶ月が経とうとする。まだまだお客さんの前で緊張しているが、それでも以前よりはやっと肩の力が抜けてきた感覚がある。先輩からの丁寧な指導もあり、少しずつだが自分の中に落とし込めている感触もある。
元来、不器用である。人より時間をかけて、やっと人並みに動ける。地道にコツコツやっていかないといけないため、いわば「歩みのノロい亀」である。

別部署にいる同期はすでに会社の一員となっている。帰り際、たまたま顔を合わせたときに言われた。
「俺、もっと頑張らないといけないから。まぁ、いさをも『ゆっくり』頑張りなよ」
入社してすぐならスタートラインが一緒であることもあり、その物言いにカチンときただろう。しかし現在、スタートラインが一緒だったにもかかわらず、彼の成績を見ると、彼の要領の良さと努力を認めざる負えない現実を目の当たりにしている。

そこで僕は心の中で呟く。自分はのろまな亀である、と。
悲観しているわけでも、自虐でもない。
「ウサギとカメ」という童話でカメはウサギに勝った。この童話から多くの人は、一歩ずつでも歩めばゴールにたどり着くことから諦めずに努力をし続けることの大切さを学んでいる。でも大切なことはそれだけではない。
今ならカメの気持ちがなんとなく分かる。カメからすればそんな綺麗ごとで物語を終わらせてほしくないと思う。カメだってウサギみたいに早く走ることができれば、と心の中では思っただろう。ないものねだりをしてもしょうがないからと一生懸命歩き続けた故に、ウサギより先にゴールをしたはずだ。
他人の優れたところを羨むのではなく、自分の持っているカードでなんとかする。
綺麗にできなくてもいい、ないものねだりをしてもしょうがない。
今、目の前で起きていることに、一生懸命取り組むしかないのだ。

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