意識の働かせ方を得る
物語ることと、自身を表さんとすることとの異なり。
先週はそんな話をしたのだった。
その異なりの定義がわかったのではないけれど、今の僕に必要なものはわかってきた。
この意識の働かせ方を強化する必要があるのだ。
意識の強化、ではない。
この意識とは、既に充分強く在る。これ以上意識そのものを強化することは、独りよがりとかエゴイズムという道しか開かない。
この世界に自分一人しかいないのであれば、それもまたいいのだろうけれど …… 事実として、たくさんの他人と暮らしてゆかねばならないのが外の世界だ。
意識そのものと意識の働かせ方。
力と方向性、と言ってもいいだろう。
ダムに溜まっている大量の水には、物凄い力があるだろう。
けれども、その力をただ単に開放すれば、せいぜいあらゆるものを押し流す力と発揮されるだけだ。
そこに流れを作ってやって、例えばタービンを回して発電することで、ようやく有効に使用できる力となる。
力とは単に力であり、方向性を与えて初めて意味を生じる ―― それは人の意識とて同様であろう。
今までの僕は、物語ってはいなかったのだ。
例えば創作というものをやってみて ―― それが創作という形式を纏っていても、その表皮の奥にあったのは「意識して表すこと」ではなく「突発的な感情の発露」といったもの。
突発的なものであれば、長く継続することもできない。
その突発性が、真に人目を引くものであれば、あるいは芸術と呼ばれるのだろう。
だが、僕にそんな力はないし、今更その様な力を望んでいるのではない。
本当に欲しいのは、意識して表す力。働かせ方であり、方向性。
心とか無意識とか自己だとか、その様なものは、自分なりに散々検討してきたのだ。
いや …… それらを「検討」してきたというよりは、そういったものの感じ方に「流されて」きた、と表現した方が適切かもしれない。
今まではそうだった。そしてこれからは、この意識というものを検討することが、より必要となる。
だからといって、じゃあ意識と無意識のどちらが偉いのとか、精神と肉体のどちらが大事だとか、そういったものを決めることに意味は生じない。
そう、あまりにも無意味だ。内界と外界とは、本来同等であろうから。
いや、その「偉さ」とか「同等」といったものが、元々は人間社会の拵えたものであるのだから、外の世界も心の内も本来はただ「在る」という、それだけ。
ただ在るだけだ。
価値や意味を探ること自体、本質から外れる。
そう理解したうえで、それでもこの世界を生きてゆくために、価値や意味といったものを自らの意思において定めてゆく。
価値や意味が始めから外に存在するのではない。
僕や私が自分自身として生きてゆくために、そういったものを必要としたのである。
望まれているのでも望まされているのでもない、自ら望むものがあるはずだ。
それを成すために、この意識を働かせてゆく具体的な力といったものが、是非とも必要になる。
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